第31号 2012年(平成24年)2月15日 ( 3 ) |
名古屋 茂郎 先生 | |
名古屋先生は1991年4月から2000年3月まで9年間、国語教諭としてわが校で教鞭をとられた。 先生には三つの異名がある。一つは掃除の名古屋。赴任そうそう、校内が汚く、とくにトイレは茶色く変色していることに驚き、なぜ生徒達がきちんと掃除を しないのか、教師も指導しないのかと、教頭先生と喧嘩したそうだ。良い環境の中で授業をすべきと、それから先生はすぐに行動に移した。まずは男子トイレに 男子生徒を集め、先生自ら素手で便器を磨き、掃除すれば綺麗になることを見せて教えた。しばらくすると生徒達が自主的に掃除しはじめ、次第に、他のクラ ス、学年と広がり校内のトイレは見違えるほど白くなった。 二つ目は漢字の名古屋。先生は授業の始めに必ず漢字の書き取りをした。ある時、その時間がもったいないと拒絶した生徒に、頭ごなしに怒らず、「文句を言うなら、合格点を取ってから」と大学受験までにマスターすべき漢字の書き取りを、教材を手作りして続けたそうだ。 三つ目は新潟の名古屋。新潟出身で農業を手伝いながら苦学されて高校を卒業。自己紹介の時によく使い、生徒に名前を覚えてもらうのに役立つとおっしゃる。 先生は長く教職につきながら短期での転任が多く、フルで担任を持ったのは五回だった。とくに国府台では二回で、その時の生徒達とは今でも毎年クラス会を続け、教え子と顔を合わせるのを楽しみにしている。 野球部の部長としてもずっと活躍され、国府台の後着任した千葉経済大付属高校でも部長を任され、その時に念願の甲子園出場がかなった。先生がベンチに座るとチームがぐっと引き締まるそうだ。最近でもOB会に顔を出し、試合の応援のため野球場を訪れる。 現在は、柏と鎌ヶ谷の高等技術学校(通信制)で国語の授業、西千葉の敬愛大学の社会人講座で年6回、「百人一首」と「奥の細道」の講義をされている。先生がお書きになった百人一首の本は完売になるほど人気である。 72歳になってもお元気で、創立メンバーである「西行学会」や「和歌文学会」にも参加している。また講座の下調べや分かり易い資料づくりのため、現地の写真をとるなど、日々忙しく活躍されている。 |
恐怖の一夜 修学旅行 高校を卒業して半世紀以上が過ぎ、今年初めて同窓会定例総会に参加した。懐かしい母校を見ると在学中の事が色々思い出された。 一番の思い出は北海道修学旅行である。 7月末ごろ、二泊三日の北海道修学旅行が決定した。海を渡る危険があるため、反対の意見があったが生徒会長、職員、父兄が教育委員会等を説得し実現した。 初日、東北への表玄関として親しまれた上野駅を夜行列車で出発し、7時間程で青森に到着、未知の国北海道へ向った。海は少し荒れ模様だったが無事函館に入港した。 下船すると、北海道の大地に来たのだ、という感動を覚えた。 昭和新山、洞爺湖、白老村、登別温泉、トラピスト修道院、札幌、函館山等の観光が始まった。 | 昭和新山は白い煙が立ち上り硫黄臭くて思わず鼻を摘んでしまった。そこで記念写真をパチリ。移動中キタキツネが高原を走っていた。 始めてみる光景に感動したものだ。夕方には函館山に登り、山頂展望台から観た夜景の美しさに感動。 街の灯り、水平線に連なるイカ釣り船の漁火、まさに『宝石箱を開いた感動』 『星が舞い降りた街』と形容される日本三大夜景の一つ、感動の嵐だった。 翌日白老村に行きアイヌ民族の歴史と文化を学んだ。そこで『ピリカメノコ(美しい少女)』というアイヌ語を覚えた。 旅行も大詰めとなり、道内最大都市札幌に向った。街並みには近代的ビルが立ち並び大都市の景観をなしているが、反面、 時計台や北海道庁旧本庁舎といった開拓時代の歴史を感じさせる建物が残っており、小雨に煙って独特の魅力にあふれたていた。 観光が終わって函館港に向う。着いた時には日が暮れて周りは真っ暗、その上風と大粒の雨、海は荒れている。欠航するかどうか検討されたが出航となった。 (私はもう一泊できればよいのにと思っていたが) 出航して間もなく船は大揺れ、自力で立つことが出来ず皆船酔いをし、先生方は介抱に終始、担任の青野先生は大声で陣頭指揮をとり、生徒を一箇所に集めた。 船は一晩中木の葉のように揺れ、皆心の中で沈没しないことを祈っていた。 その時私の脳裏には5年前(昭和29年9月)洞爺丸沈没事故の記憶が走っていた。台風で青函連絡貨物船四隻が沈没し、犠牲者は1500名に上り、海難史 上、1912年のタイタニック号沈没に次ぐ大惨事といわれていた。災害は忘れた頃にやってくるどころか、何度も繰り返される。われわれは自然の猛威に教え られた。 青森港に着いたのは夜明けで、夕べの嵐が嘘のような朝焼けが出ていた。我々一行は上野に向かい無事帰宅した。修学旅行の恐怖の一夜は船に乗るたびに思い出される。
12期 野田 能右
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