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国府台高校同窓会会報
第29号
2010年(平成22年)2月15日

( 3 )

お元気ですか 
藤原 生通[たかみち] 先生

江間先生
 
 藤原先生は昭和39年、大学卒業後すぐに赴任され、14年間国府台で教鞭をとられました。
 アラ還世代にとって、憧れた先生といえば、体育の藤原先生でした。若く、長身で日焼けした爽やかな笑顔、今でいえばイケメン。女生徒からの人気はかなりのもので、校内を大またで颯爽と歩く姿は今でも印象に残っています。
 学生時代、三段跳びの選手だったこともあり、すぐに陸上部の顧問となり、またラグビー部も、校長先生から、「危険なスポーツだから、若い体育の先生に」と顧問を頼まれ、ルールを勉強しながら、5年間携わり、審判もするまでになりました。
 陸上では、あの輝かしい昭和43年のインターハイ優勝、翌年の走り幅跳びの大会新記録での優勝の影の立役者でした。「何より、進学校で優勝できたこと が、うれしかったなあ」と顔がほころびます。今でも、その頃の生徒達とときどき会い、先生が退職の時は、メンバーが集まってお祝いをしてくれたそうです。
 「国府台で教師としてスタートできたことは、楽しく、そこで身についたものが今でもベースになっているし、リベラルで何でも新しく取り入れ、また、いろいろな先生との出会いがおもしろかった」と懐かしまれます。
 その後、新設の船橋芝山高校で3年、津田沼高校で12年、そして県の教育委員会のスポーツ行政に携わりました。
 現在は千葉陸上競技協会の理事長として、活躍されています。千葉陸協は国際駅伝も行っており、平成22年の秋の国体と行事が続き、準備に大忙しだそうです。
68歳となられても、颯爽と歩くスピードは変わらず、特に運動はしていないといっても、毎日のウォーキングが、健康の秘訣なのかもしれません。
 最近、学校体育でなく、社会体育に協力してくれる人が少ないので、教員が主力となりますが、学校の体制の変化で、先生にもなかなか手伝ってもらえないのが悩みとか。
 「鴻陵生は卒業して、友達と会ったり、クラス会、OB会で肩を組んで校歌を歌うよね。それは、愛校心があるからだよ。 人生で一番いい思い出ができるのは、高校時代だから、いつまでも付き合える友達を作ってほしい。選り好みをしないでね」と現役の鴻陵生に伝えたいそうです。


想い出
帽子とバス通学 
 私は19期で娘は50期、親子で国府台高校にお世話になりました。 今回先輩から連絡をいただき会報に文章を寄せることになりました。おかげさまで同期のみんなに会うような気分になっています。
 入学時の昭和39年は東京オリンピックの開かれた年であり体育の授業もテレビ観戦になったこともありました。 又ミロのビーナスが来た年でもあり学校全体で上野の西洋美術館に鑑賞した思い出もあります。
 私達男子学生は黒の詰襟で校章の入った金ボタン、白い二本の線の学帽でいかにも高校生といった姿であったように思われます。 通学中のバスである時突然に乗り合わせた女子高生に帽子を貸してほしいと頼まれたことがありました。 (その人は以前から二本線入りの帽子に目を止めていたのだろうと思いますが)文化祭の演劇に使うとのことでした。たぶん金色夜叉の貫一役が使ったのでしょうか。 数日後同じバスに乗って返してもらったのですが、それがきっかけでその後、いい関係に発展したかというと何もありませんでした。
 私の通学したバスは、朝は満員のことが多く停留所に待っていても通過されることがよくありました。 女性の車掌さんが窓から顔を出して「乗れません、通過します」と、行ってしまいます。 満員のバスにやっとの思いで乗った時ドアがなかなか閉められず、その時帽子が道路に落ちて拾いに言っている間にバスは動いて行かれてしまったこともありました。
 三年間のバス通学でしたがいろいろなことが思い出されます。
 卒業後千葉県洋上大学に参加し、そこでこの冒頭の先輩に出会うわけで、 国府台高校のバッチの色が同じ赤ということは私が入学した年に先輩が卒業したということでした。 勧められるままに翌年、総理府の青年の船事業に参加して得た貴重な体験と多くの出会いは国府台高校とともに、私の大切な宝といえます。
     石井 利和 
   19期(S42年卒) 
制帽

わが青春に悔いなし? 
  入学間もないある日、友人に「一緒に行こう」と誘われていった部室が話術研究部。落語を語るとも知らず入部してしまった。 「今日の部会は体育館に集合」と連絡があり、行ってみればフォークダンスの輪が展がる。 相手が居ないと輪に入れず、テネシーワルツのステップを一人淋しく片隅で眺める。胸は焦げたり萎んだり……。 それは誰もが体験した当たり前のことだ。
 国府台を去る先生方の挨拶は異口同音に「この学校に来た時、男子と女子の仲が良すぎておかしい、不思議だと思ったものだが、今は素晴らしいと思う」と言う。 内藤校長先生を中心に諸先生や先輩達が十数年の歳月をかけて築いた校風だ。
 
 あの頃のたった三年の日々。楽しさの真っただ中に在るなんて少しも思わず、何になる、何をしたい、どういう生き方をする、なんて考えていた。 青春の一番楽しい時に。
 高校生活は、最後まで楽しかった。わが青春に悔いなし!と言いたいところだが真面目に勉強もすればよかったなあと、いまさらながら思っている。
伊藤 順一
19期(S42年卒)

演劇三昧に明け暮れて
演劇
 私達16期は、終戦の年に生まれました。私たちの人生は、戦後史そのものです。平和を愛し、自由を愛し、どんな新しいことにも果敢に挑戦し、 乗り越えてきました。
 このことは国府台高校の自由で大らかな校風のもとで学んだことが、その後の原動力になっています。
 高校生活一番の思い出は、有名であこがれの演劇部に入って三年間、演劇ザンマイで楽しく過ごしたことです。入部早々先輩から学校の七不思議を聞かされ、 特に昔、軍隊の跡地だったこともあり、兵隊さんの幽霊の話など怖かったです。 また鴻陵祭などには大ハリキリで、木下順二の「夕鶴」、岡本綺堂の「修善寺物語」など発表して沢山のお客さんを集めたものです。 今でも当時のガリ版摺りにボールペンで注意事項を一杯書き込んだ脚本を大切にとってあります。
 市川市高校演劇合同発表会に毎年参加して、市川学園、市川工業、昭和学園、和洋と競っていました。 頑張っていたんだなーと懐かしく思います。皆で一つの作品を何ヶ月もかけて作り上げていく喜びは、その後の人生に大きな力となりました。まさに青春です。
 でも外では学園紛争が高まり、卒業の年に東京オリンピックが開かれ、成人の年にはビートルズが来日し、大きく変わる時代の中、大人の世界に入っていきました。
 今思うと、国府台高校での三年間は幸せでした。よい友達に恵まれ、今も変わらずお付き合いを続けています。これを機会に改めて、鴻陵生先輩・後輩皆様のご健闘をお祈りします。
松岡 厚子
16期(S39年卒)


転出された先生方 
平成20年3月に転出された先生方を、お知らせします。
   校長 北島一雄(退職)
   数学 村岡芳行(市立松戸教頭)
   数学 鈴木康裕(鎌ヶ谷)
   英語 小野詠子(市川工業)
   養護 平野真弓(松戸南 定時制)
   事務 土屋光正(流山事務長)
   事務 岡崎和義(葛南教育事務所)

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