第27号 2008年(平成20年)2月15日 ( 2 〜 3 ) |
ポスト | 同窓会・クラス会・部活OB会..... やった、やるよ、やりたいな。報告、告知のミニレター |
11期(S34年卒) 北岳で“ブロッケン”を見た 昨年八月、国府台高校山岳部の仲間三人で南アルプス北岳へ登った。 山頂を踏んで肩の小屋で一泊。翌日、薄いガスの中を下山していった。稜線から草すべりへと下る地点にさしかかり、そこを過ぎると甲斐駒・仙丈ともお別れである。両山とも雲がかかっていたが、ゆっくりと動いていたので、姿を現してくれるのを期待し、しばし佇んでいた。 足元の谷からはガスが吹き上げていて、そのガスにチラッと円い虹が見えた。 「もしかするとブロッケンが見られるかもね」等話していたその瞬間、 「あっ、ブロッケン!」 同行のT君の影がガスに映り、その回りに円く虹がかかっていた。三人で同じところに立っているのに何故か一人T君のブロッケン。日本語ではご来迎というが、そう、まるで仏様が現れたよう。まもなく消えた。 そして、甲斐駒ケ岳・仙丈ケ岳に見送られ、別れを告げ下っていった。 尾上 光義
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5期(S28年卒) 我等の故郷国府台高校 |
五期生は二年ごとに同期会を開催しています。平成十九年七月十四日、市川市内ベルクで、卒業五十四周年記念の同期会を開催しました。 高浦先生にご出席をいただき十八名が集まりました。当日は台風の接近が刻々と報じられるあいにくの天候の日でしたが、このような日に同期会を開くことこ そ、正に五期生の心意気であると開会しました。私たち五期生は卒業時の総数は百数十名と少数の学年ですが、時代の変わり目に立ち、新制中学、新制高校の第 一期生としての誇りを持っています。 出席した同期生は、皆若々しく見えきちっとした態度は、この厳しい時代を乗り越えて来たという自信と信念が見られました。 近況、思い出話、各所で笑い声、グラスの触れ合う音があり、あっという間に五時間が過ぎました。国府台高校こそ我等の故郷であると誰もが思い、再会を約し会は閉じられました。 斎藤 正臣
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18期(S41年卒) 初めての同期会 平成十九年十一月十日初めての同期会を市川グランドホテルで、生徒百十九名、恩師四名の合計百二十三名参加のもと開催しました。 私達は団塊世代一期生で十一学級五百八十八名という大所帯です。入学当初は、八学級でスタートしましたが、二年次に葛南分校舎に間借りしていた三学級が 加わったのです。高校生活最初の一年を別々の環境で過ごしてきた両校の生徒をうまく融和させるため、先生方は大変な努力を払われたものと思います。 同期会開催に当たっては加藤委員長を中心にして一年前から準備を始め名簿の精査を行い、約四百三十名に案内状を送付することができました。 当日は大盛況で、大木忠郎先生、岡野照先生、牧勇次郎先生、江間實先生にご参加いただきました。 私たちが若い頃思っていた還暦の姿とは違い、皆若々しく感じられ、「私たちが還暦!冗談じゃないよ」と思うほど元気な人達の集まりでした。 散会後は、クラス会を二次会としたりして、家にたどり着いたのが午前四時という強者クラスもあったようです。 本当に楽しい一日を過ごしました。 星野 誠
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23期(S46年卒) 今も続く有志の集い 卒業後間もない頃、八幡の某喫茶店に群がる者達で、飲み会を開いたことがきっかけで、二十三期の気の知れた仲間が集まり、昭和五十六年には、「鴻陵誠会」として結成。体育会系所属が多いものの、顔ぶれはクラスも部活も様々で、面々の個性に至っては、バラバラであった。 旅行や家族ぐるみのキャンプなど催してきたが、今でも全員が揃うのは、恒例の新年会。髪も薄くなった五十半ばの男性で現在十四名。お互い苦労した分、角もとれ、皆丸くなってきた。 永年この会を束ねてきた宮森君の言葉が、我々の全てを語っている。 「四十年近くも昔のまま付き合って来られるとは思っていなかった。今はこの仲間との付き合いが財産だ。」 倉島 俊和
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興津海岸での記念写真 初代校長、奈良輪隆吉先生との縁で、東京都立九段中学校(現 九段高校)の「至大荘」で夏・冬の休みに合宿をしました。 昭和十八年、一年生の夏(十二・三歳)が初めての合宿です。戦争中、外房線沿線は、本土決戦に備えて軍事施設が多く、蘇我駅を出ると窓が閉じられ、上総興津駅まで不安で一杯でした。 午前、午後の水泳訓練は海中に立てた櫓の上からの高飛び込みや遠泳。夜は試胆会。それから漁師がくれた蛸とウニ。バケツにウニを割り入れ、海水でのばし た特製のタレに、火であぶってぶつ切りにした蛸をつけて食べる。蒸した南瓜を食べるなど、三食ともに食事面では恵まれました。 冬は朝6時に起床。軽い体操のあと海中に入り禊をし、日中は昼寝と勉強、ランニングなどで過ごします。 二年の夏は、白浜沖に米潜水艦による砲撃があり、近くに火薬工場があって危険なので片貝小学校の講堂を借りての合宿でした。片貝川での水泳訓練は、河口が近く冷たく流れが速いので、横断するのが大変でした。 講堂の天井に貼られていた「はいの返事は笑顔でしませう」は、小生のモットーのひとつになっています。 写真説明ですが、同期七十七名中、疎開などで参加できたのは五十五名。左端は教練の牧野少尉で、終戦間近に北支に出征し、戦死されたとの事。全員痩せて いますが元気で屈託の無い姿を見ると、故人になった友、現在交流している友、皆の面影や思い出が今でも蘇る貴重な一葉です。 中野 達也
1期(S24年卒) |
私の歴史の一頁 私の高校時代は、一日も早く試験生活から抜け出したいと思いながらも、自由に活発に日々を刻んでいました。 放送委員会の“希望委員”に入っていて(今はあるのかな?)毎朝スタジオで発声練習、早口言葉で口ならし、昼は音楽を流してDJ気分を味わったりもしました。 校内で合宿をしたときは食事の支度でワイワイ大騒ぎだったことも、今では懐かしい思い出です。合宿のメインは朗読の猛訓練。放送大会の決勝に参加するた めでした。顧問のスズメバチ(愛すべきニックネーム)と二人、新幹線で大阪へ向かいました。結果は?どうでもいいですよね。 国府台高校は私の大事な歴史の一頁なのです。 小島 名美
23期(S46年卒) |
鴻陵祭にテレビが来た頃 鴻陵生はすごいんです。そしてやはりその象徴は鴻陵祭。体育祭、HR発表、講演会、文化祭を1週間で一気にやりきるための鴻陵生の「企画力」、夏休みが夏休みでなくなる「行動力」は卒業後二十年以上経った今、振り返っても大したものだったなと思います。 先輩方が「寅さん」の山田洋次監督の講演会を直接交渉で実現させた武勇伝にも納得。 そして私が3年生の時、ただでさえ濃厚である鴻陵祭の歴史の中にも燦然と輝く「NHK取材」という大事件がありました。伝統の3年生芝居を中心に取材したNHKは、なんと!鴻陵祭の魅力をたっぷり詰めた二十分の特別番組を制作し「全国放送」してくれたのであります。 端役ではありましたが私も役者の一人であり、芝居風景のなかで私もテレビに映りました。このときの舞台衣装はまだ持っていますよ。 当時の国府台高校では旧兵舎の木造校舎や旧本館、講堂など大半の建物の取壊しと新築工事が一斉に進められていました(この一連の工事前後で変わらないの は現在の第二校舎だけです)。このため校庭にはプレハブ校舎が仮設されて思うようには使えなかったため、ファイヤーストームを伴う後夜祭は、江戸川沿いの 第二グラウンドで行いました。 役目を終えた舞台資材など、燃やすためのベニヤ板やらを小脇に抱えた鴻陵生が、川土手を長々と歩き、第二グラウンドへ集合。歩いた甲斐あってか校庭より もずっと広い場所で夕闇の中、大きな火を囲む・・・そしてその炎に照らされた鴻陵生の顔、顔、顔・・・このシーンも放映されました。とても良かった。 誇らしきかな我が鴻陵生時代。母校の更なる発展をお祈りします。 出口和幸
37期(S60年卒) |
松沢 妙子 先生 |
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松沢先生は、昭和三十九年から英語科で教鞭をとられた。 「結婚が決まっていた事から教師として仕事をするという意識が薄かったのか」大学を卒業したが赴任先がきまらず、教育委員会から注意を受けた。」という。 そのような折、LL教室ができて女性の教員が必要と国府台高校から声がかかった。 「つらいこともあったが、教師として育てられ、人として成長することができた。生徒には申し訳ないと思う程自分の成長を感じる日々であった。」と国府台 高校での十六年間を振り返られる。つらかったこととは、まだまだ少ない女性の教師はどうしても軽く見られる一面があり、若くもあったので、担任を持ちたい という希望がなかなか受け入れられなかったこと。「悔しい思いをしたことは、今でも忘れられない」と目をうるませられた。子育てのころは、同じ立場の働く 母親たちと協力し、育児施設の整備など女性が働く環境の充実を行政に訴えるなどの活動もされた。 「右も左もわからない新米教師を、英語科の諸先輩が助け、育てて下さった。」 当時お世話になった英語科の先生方とは、今でも毎年食事や旅行の会を催すなど親交が続いている。 思いのままに、大学の聴講生として大好きな英語を学んだり、海外旅行を楽しんだりと、定年退職された今、ますます人生を謳歌されている様子は、若々しくさわやかで放課後の教室で話をしているような錯覚に陥るほどであった。 |