第19号

平成12年(2000年)1月15日発行

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11年度定例総会開かる
学校創立60周年記念事業準備委員会設置
 十一年度定例総会は、例年通り五月第四日曜日、五月二十三日に開催された。
 会長、学校長の挨拶に始まり、十年度事業報告、決算報告が承認され、十一年度事業計画と予算も無事承認された。
 引き続き、母校創立六十周年及び、同窓会設立五十周年記念事業開催に向け、すでに設立が決定されている準備委員会のメンバーが決定した。
 準備委員会の活動は、今年度中は学校等各方面との連絡調整を行い、記念事業の形態・内容の枠組みの検討を進め、同時に同窓会内の基盤整備の検討・調整を進める予定となっている。
 毎年、総会の出席者は同じような顔ぶれである。一人でも多くの会員に参加してもらいたいが、同窓会の存在すら知らない会員が多いことも否めない事実である。
 六十周年記念事業が、五十周年に続き、意義ある集会になり、会員の輪が広がる事が期待される。
 総会終了後、恒例の懇親会に移った。飲物、軽食も用意されて和やかな中に楽しい一時を過ごして散会した。
  記念事業準備委員会  
委員長 井 尾 成 海
3期
副委員長 澤田大八郎
7期
委員 田 中 愛 子
9期
中 澤 礎
15期
工 藤 愛 子
15期
尾 形 光 造
22期
深 川 保 典
24期
飯 田 幸 治
35期


六十周年に向けての動き

名簿委員会
 来る六十周年を迎える頃に、同窓生の総数も一万五千有余人となります。多くの皆様に、六十周年記念事業開催のお知らせをもれなくする為に、情報収集に努めていきますので、ご協力をよろしくお願い致します。
 より充実したデータストック基地として、最新の動向情報を、同期会、クラス会、クラブOB会等開催に対応できるよう、名簿整備をしていきたいと思います。
委員長 尾形光造
ネットワーク委員会
 六十周年記念式典まであと四年余りとなりました。それに向けて、今年度からネットワーク活動のあるべき姿を検討し、連絡網整備をしたいと思っています。
 五十周年式典の際には、その準備のための日数、予算共に不足で、当時は名簿委員長として名簿発行に携わり、その手だても暗中模索で委員の献身的協力のもとに仕事を進めました。その時の問題点として(1)少ない資金の運用と制作費の確保(2)手作りの頒価本(3)膨大な情報収集と処理等があります。制作費はOB広告欄による広告料と本の販売の料金によることにし、情報処理はパソコンを導入、口コミの情報収集網を作ることになり、そこでネットワーク委員会が創設されました。ここではOB達の情報を得るための連絡網を築きます。縦糸が各期の理事や委員であるとすれば、横糸は会社組織や同好会のメンバーです。
 五十周年の際の反省を基にし、万端怠りなく準備のため情報の整備充実をしたいと思います。勤務先等の情報収集のため、OBの活動状況まで踏み込めるものにしたいと思っています。
 会員の方々に御理解いただき、情報提供等の協力をお願いいたします。
委員長 中澤 礎
広報委員会
 前回の記念事業以後、PR誌「窓」を始め、同窓会会報の再刊第四回目(18号)を発行しました。
 今後六十周年に向って年一回の会報発行を企画しています。会員諸氏の御意見後提言等を、お寄せ下さい。
委員長 澤田 大八郎

(事業報告、予算・決算はこちら


鴻陵祭  同窓会の参加も四年目に

 今年で四回目の参加である。昨年同様、教室での展示をした。昨年のコンピュータ、壁展示に加え、パネルが用意され、国府台高校の歴史を一般の方々にも知って頂きたいとの思いをこめ、年表と文章が綴られた。多くの会員の協力により、わかり易く説明されていた。
 同窓会が鴻陵祭に参加するのは、会員だけでなく、在校生にも同窓会の存在や活動を知って欲しいからである。毎年新しく訪れる人がいるものの、今一つ盛り上がりが足りないように思える。友人と声を掛け合って懐かしい母校で談笑し、クラス会同期会等に盛上がることを、期待してみませんか...。


おめでとうございます 勲二等旭日重光章
 
 青野茂行先生が、秋の叙勲で、勲二等旭日重光章を受けられました。
 青野先生は、大正十三年に銚子でお生まれになり東北大学卒業後、国府台高校に奉職されました。
 ぶらりと訪ねた国府台高校が気に入り、あっと言う間に採用が決まってしまったそうです。
 昭和二十二年から三年半、専門の化学の他、数学を担当したこともありました。
 その後、千葉一高、千葉大を経て、金沢大学で二十四年間教授をされ、平成に入って三年間学長を勤められました。(その間に一年間研究のためアメリカへ)。
 今は、故郷の千葉県に戻り、船橋で毎日コンピュータを操作したりしながら、生活を楽しんでおられます。



鴻陵のこと
 前回(第十八号)で、いつ頃から「鴻陵」というようになったのかを、考えてみた。
 創立四十周年記念誌を読み直し、執筆された荒巻先生のお話から、黒羽先生の作詞による応援歌ができたころから、生徒や先生方の気持ちの中では、ずっと鴻陵だったと思われる。
 「見よ鴻陵に雲晴れて.....鴻陵健児の意気燃えて...」と歌いながら、鴻陵という言葉が生徒の気持ちとマッチして、鴻陵生、鴻陵祭、鴻陵音頭と、すっかり学校生活の中に溶け込んでいった。昭和三十六年には、生徒会公募の「文化祭の歌(鴻陵歌)」もでき、落語研究会による「鴻陵寄席」が開かれ、壮行会では「フレー!フレー!鴻陵!」と応援団とともに歓声をあげた。
 国府台高校の生徒であるという誇りが、荒涼という言葉の中に込められ、受け継がれてきたのではないだろうか。
 今現在も、鴻陵祭などに表れている鴻陵生気質をもち続け、多くの先輩方が培ってきたよき伝統を大切にして充実した、エネルギッシュな高校生活を送ってほしい。



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千葉県立国府台高等学校同窓会