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国府台高校同窓会会報
WEB版
第34号
2015年(平成27年)2月8日
(6〜7)

特集 わが青春、わが母校
《荒廃から創記へ》
転換期に青春を迎えた二期生の追想
一、入学当初
 登校時、駅を過ぎると当時の宮田校舎手前には踏切があり、これが一つの鬼門であった。 ここで貨車長連結に遭遇すると遅刻の恐れがあったのだ。これを無事通過し、まもなく校門に近づくと三々五々、 上級生を先頭に隊列を組んで〈歩調トレ〉の号令一下、行進して校門をくぐったものである。
二、当時の学校風景
 昭和十九年当時の社会は、敗戦色漸時濃くなり、通常の授業のほか軍事教練、シャベル持参で曽谷農場へ出向いての開墾、 はては学徒動員による中山競馬場での馬の飼育まであった。馬を飼育する目的は、軍の要請による破傷風血清を得るためである。 飼葉の準備、厩舎の清掃、馬場での運動とひと通りのことは行った。現在の高校生にはない実体験であろう。
 楽しい想い出もある。一年時の夏休みの海洋訓練である。 外房、成東駅から海岸に向い、作田川沿いで行った小学校をかりての先生、生徒合宿の十日足らずの身心鍛錬である。 朝は地曳網、日中は水泳訓練、夜は試胆会と話題はつきない。
三、二期生の特色
 終戦以後、宮田から国府台への校舎移転、新制高校への改変、それに伴って学友との離合集散と、変転は時と共に間断なく続いた。 吾々の学び舎は明治初期から続いた旧陸軍野戦重砲連隊戦士達が起居した兵舎で、まさに〈つわものどもが夢の跡〉であった。
 何と言っても吾等二期生の稀有な体験は、三度にわたる学友との別れを持ったことである。 中学四年修了で旧制高校や大学予科へ進学した者、中学五年での卒業の時、新制高校卒業時と三度の朋友との別離は、 現在に至るもそれぞれの胸に感慨深いものが滲みついている。こうして吾々の青春時代の相貎は社会の変転と 共に苦難から再起へとメタモルフォーゼしていったのである。
注:メタモルフォーゼ (生物学でいう変態・変身)
四、忘れられない原風景
 二年生当時の私は、比較的近い徒歩通学者に課せられていた非常時の学校駆付け要員として、警戒警報発令とともにその夜学内に待機していた。 蒼穹であった天空は、深夜南南西方向では鬼灯色に茜色をかけた異様な輝きを、校庭の待機者に対して展開していた。 それは一夜にして横浜の街並みを灰燼に帰せしめたB29空襲による横浜の断末魔の姿だったことを後に知った。 寛努を乞う次第である。
2期 浦井 幸雄
高校生活は貴重な青春 

 私の高校生活は、ホロ苦くも、よき思い出です。
 一年次、森先生の「音楽」が1時間だけ必修で、終了試験では「冬の旅」の「おやすみ」を歌いました。 卒業後、船橋の「若草」、大学合唱団、労音の「第九」、オペラ「カルメン」等に参加し、いまは「悪魔の飽食」を作曲者池辺晋一郎先生の指揮で、 毎年外国や国内で歌っています。たった1時間の「音楽」が心に灯をともしてくれました。
 一年次に図書委員を引き受け、図書室の鍵を預かったばかりに、3年まで続きました。神田古本屋での仕入れ、生徒会総会や委員会、 市内高校図書委員交流会の当校開催など様々な経験がありました。青春には、困難はありませんでした。
 三年のある日、図書閲覧室で1年次に同クラスだったFさんが、教科書を開けていました。 「しばらくね」と先生の批評、クラブ活動のことで時間を過ごし、 ノートを貸したりして、「大学入試をがんばろうね」と話し合いました。その後何回かお会いして、すなおに話が弾んだひとときでした。
7期 今関 一夫


何で音楽部に

 「オーイ林ーィ」私のことだ。入学式終了後、帰りがけに音楽室二階の窓から声が降ってきた。 「上がって来いよ」中学の先輩が呼んでいる。部長の押塚さんに紹介され、即入部ということに。
 私は小学四年から中学一年まで音楽部にいたが、ここ二年は止めていたのだ。高校入学したら柔道部へ入ろうと決めていたのに。 何で音楽部に。
 毎日、朝に昼に放課後と部室に入りびたりの三年間だった。 その間音楽部は各種コンクールで毎年上位入賞を果たすなど大活躍。 合唱をやっていてよかった。仲間に会えてよかった。
 数年後結成された国府台混声合唱団は今も健在。 各種イベントに参加するなど精力的に活動している。 指揮者は入学式の日に紹介されたあの部長だ。第一・第 三日曜日に練習している。喉を使った後の一杯と他愛のないおしゃべりは無上の喜び。 この歳でまだ歌っていられるのも幸せの極みか。コーラス万歳。
14期 林 直樹

懐かしの国府台


 久しぶりに斯林組の名簿を開いてみたら、懐かしいお名前が並んでいました。
 私は中学三年の11月に、東京世田谷から八千代台に転居しました。受験を控えた大変な時期でした。 正直申してあの頃の八千代台は、西部劇に出てくるような辺鄙な町で、カルチャーショックを受けました。
 幸い第一志望の県立国府台高校へ入ることができましたが、やはりあまりなじめないのが苦痛でした。
 後日、クラスメートのKくんから聞いたのですが、私はストイックな感じだったそうです。
 一浪して大学へ進学して間もなく東京へ戻り、国府台高校は遠い存在になって居りました。 しかし、英語の越田平八郎先生とは細長ーい糸で結ばれていたのが 幸いして、同期生情報を頂いたり、青春を共にした仲間との連絡が取れるようになっていました。 今ではとても懐かしく思っています。
14期 高橋 日出子


焼き付いた思い出
 
 夕暮れの下校時、友と連れ立って江戸川べりを国府台駅までブラブラ歩く。 そんな時、コロッケを挟んだコッペパンでもあれば最高の贅沢だった。たまには和 洋の学生らと抜きつ抜かれつしながら、二言三言、言葉を交わす。 今にして思えば滑稽だが、一つの冒険だったに違いない。 今どきの高校生のように、メルアド交換なんて発想は浮かぶはずもなく、純情そのものの青春の日々―。
 私は写真部に属していたので、体育祭や鴻陵祭のあとは撮った写真の処理に大忙し。 当時はデジカメなどなかったから、暗室にこもりっぱなしでフィルム現像から印画紙の焼き付け、乾燥作業までこなす。 階段の踊り場の下にあった狭い暗室は、周囲と隔離された状況で、時間の経過も分からない。 気がつけば夜中の十二時を回っていることもあって、焼き終えた学園マドンナたちの写真とともに、そのまま泊り込む日もいくたびか。
 深夜の校舎内は不気味な静けさ。兵舎跡に建てられた校舎だったから、戦死した兵士の幽霊が出るとのウワサもあったし、 校内見回りの人に見つかりやしないかと、けっこうビビッたものだ。 私の〈無断内泊〉を後で知った顧問の先生はといえば、「当直に見つからないようにやりなさい。 親にはちゃんと連絡しておくように」とだけ言って、片目をチラッとつぶり、黙認の仕草。 のんびりした自由な気風があった。もっと言えば、人と人との信頼関係があった。
 一方で、六十年安保の真っただ中。数学担当だった、いわゆる〈赤先生〉は授業をほったらかして反安保の話ばかり。 生徒は誰一人として文句を言わずに聞いている(ふりをしていた)。 今の生徒なら、「先生、そういう話は放課後にして、ちゃんと授業をしてくれ」とハッキリ主張するのだろうけれど、 あの頃のわれわれは従順で、おとなし過ぎた。
 そんな鴻陵時代の青春の日々を改めて思い起こすと、古希を迎えた今でもコロッケは好きだし、 写真は趣味を超えて仕事の一部になっていることは、単なる偶然ではないような気がし、母校との絆を感じている。
  14期 石 原  嵩
(在カリフォルニア州)
我が青春国府台
                   
 大手建設会社で三十六年、協力会社で十年、そして現在顧問をしている会社で1年半が過ぎ、七十一歳を超えた。 この四十七年半の建設人生を振り返ると、良くぞここまでやったものだと達成感で目が潤んでくる。
 この建設人生を歩むことを決断したのが高校二年生の時でした。 農家の長男は農業を継ぐのが当然の時代に、私は農業の先行きへの不安を感じ、家族に家はしっかりと守るから、自分のやりたい建設技術者を目指したいと真剣にお願いした。 全員が私の熱意に同調してくれた。
 私は三年間雨の日も風の日も七キロの山あり谷ありの砂利道を自転車で通った。 しっかりとした自分で決めた目標に向かって、真剣に情熱を持って努力した結果、大学の理工学部土木工学科に合格した。 最高に燃えた青春の国府台でした。この時の情熱が私の原点であり、今でも続いている。国府台高校は私の誇りです。
 これから進路を選ぶ高校生諸君、今土木工学を学んでいる諸君、そして既に社会に出た技術者諸君、君達の選択は決して悪くない。 自分自身の力で一生懸命努力して大きく前進してほしい。学校にこだわるな、会社の大小を気にするな、上司に頼りすぎるな、国に期待しすぎるな。 その代り尊敬出来る先生や先輩や友人を見つけなさい。そしてその人を鏡として自分をしっかりと見つめなさい。
 七十一歳の私の親友は技術士会で土木技術の向上を目指し全国を飛び回っている。 また七十三歳の私の先輩はモンゴルに橋を架けに行っている。今やオジサンが荒野を目指している。 私も負けられない。若手技術者達の成長と言う夢に向かって現役を続けたい。
  14期 竹内 功


部活の思い出

 「軟式庭球」。重みと親しみのある名称から「ソフトテニス」に変わって20年が経つ。 入学して軟式庭球部に入った時、現天皇・皇后両陛下がテニスの縁でご成婚され、テニスブームが起こった。 入部者が50人位いて、1年間はボール拾い、トレーニングと素振りだけだった。
 2年生になると部員は半分以下に。 校内にコートはなく、練習は市営コート(現在の市営体育館の建つ場所)、市川毛織、血清研究所、国府台病院等々のコートを借り、 平日・休日に拘らず、先輩が大勢来て、時には怒られながら教えてもらった。
 2、3年時は、校舎と校舎の間の中庭に自分たちでコートを作り、昼休みもテニスをしていた。
 合宿は年2回、宿舎は校内と育英会館(現在廃止。館長は学校の講師の関係で借りる)。 練習・トレーニングは厳しく、真間山の階段10往復、うさぎ跳びコート2周、マラソンなど。
 雨の日、冬のコートの凍結等でできない時は、体育館・廊下で練習。 1年間ほとんど休みなく練習。 下校時にお腹が空き、コッペパンを買い、お金があるとコロッケを挟み食べ、時には先輩がラーメンを奢ってくれることも多くあった。
 3年生の時、全日本大会へ男子・女子各一組、関東大会へは男子一組女子三組が出場。 多くの先輩の指導に感謝。
 現在、OB会を毎年開催。今年で20回を迎える。 一時部活が消滅し復活したソフトテニス部の応援に、毎年ボールなどを寄贈し、現役の活躍をOB全員で楽しみにしている。
14期 鳥居 英彰

『輝』の像によせて

 「あなたを見ると校門の『輝』の像を見ているようです」という保健の先生の一言にクラス中が大爆笑と拍手につつまれました。
 外で飛び廻ることの大好きだった私は、高校から大学時代は前も後もなく真黒に日焼けし、 大学ではインドネシアの留学生と間違えられたり(当時通っていた大学には留学生過程があった)、 東京の街中で意味不明な言葉で親しげに話しかけられたり(そばにいた友人はスワヒリ語ではないかと言っていた)と、 逸話には事欠きませんでした。
 先年の同窓会会報で輝の像のリニューアルを知り、その昔が思い出されました。
 卒業して教員になった私は市川市の小学校に勤め、ある年、二年生の担任になりました。 体育と図工と歌うことの大好きな子供たちで、秋に描いた稲刈りの絵が上々の仕上がりだったので、 クラス全員の絵をコンクールに出品したところ、М君の絵が素晴らしい賞をいただいたのです。
 後日放課後、М君のお母様が教室にお見えになり「私の父が大変喜んでおります」とおっしゃって、 父の描いたものですがと、色紙をプレゼントして下さいました。「私の父は藤野天光と言います」とも。
 どんなに著名な方かも存じ上げずに、ただ嬉しく頂戴し、太陽に向かって咲く愛らしいタンポポの絵で、 毎年春になると床の間に掛け、今は日々是好日と茶道三昧の日々です。
 あれから半世紀にもなり、あらためてあの『輝』の像が藤野天光氏の制作であったことを知り、 М君のお母様が高校の先輩であることを知りました。
 人と人との繋がりがなんともおもしろく、世間って広いようで狭い、などと思い、思い出を重ねているところです。
 七十周年記念祝賀会に参加し、いろいろな人に再会し楽しい時を過ごしました。 こんな卒業生もいるんだよと、知っていただけたら嬉しく思います。
17期 藤城 弥栄子



心に残る台詞

 「・・・に誓います」。私は、その一言だけのためにいた。でも、その一言で、参加できた喜びを感じた。
 高校三年生の時の文化祭で、『検察側の証人』をやった。私は、女性陪審員の役になった。 といっても、その役は、長い時間舞台にはいるのだが、セリフは一言しかなく、脇役中のわき役だった。
 セリフのない人は練習に出なくても良かった。私はその一言を恨んだ。ボーっとしている時間が多いにもかかわらず、練習に出なくてはならなかった。 こんなに時間をさいて、受験生なのに何をやっているんだろうと、イライラした。
 そして、文化祭本番の日がやってきた。公演は5回程行われたが、うまくいった時は、本当に背筋がゾクゾクした。 舞台の裏で、声をひそめて観客席を見たり、ライトを浴びて汗を流しながら演技をしたとき、練習して本当によかったと思った。 これは一生の思い出である。
   44期 片山 祐子

音楽と出会った!

 私の高校時代は、『文化祭』と『音楽』でした。特に『音楽』については、高校時代をスタートにして、その後の人生に大きく関わるものでありました。
 音楽を通じた多くの生涯の友人・後輩達との交遊はもとより、楽器業界での長年にわたる生業、小学校の音楽教諭で高校後輩でもある家内との出会いなど、 「音楽」と「国府台高校」が自分の人生を作っていると言っても過言ではありません。
 高校卒業後も、同窓生達との音楽を通じた付合いが多く、歳の離れた後輩達が、ジャンルを問わず、いろいろなバンドで声をかけてくれ、 今でもよく一緒にライブで演奏をさせてくれます。
 母校在学時代に音楽に目覚め、プロの音楽家として活躍する卒業生も多く、また、楽器や、音楽雑誌など、音楽に関わることを仕事にしている人も数多くいます。 後輩で、『夢が叶う』と名乗る国民的グループの彼は国府台高校1年生の時に通学路の途中にある我が家でベーシストとしてのキャリアをスタートさせました。
 「音楽」は、汗を流して研鑽を積む運動部に比べ、「わが青春」というにはいささか面映ゆいようなものではありますが、 人生の夢を叶えて行くスタート=青春は「わが母校」での「音楽」との出会いでありました。
21期 風間 健典
(フォークソング同志会背設立メンバー)


わが野球部
  
 野球部OB会幹事をしています。26年前の話です。
 夏の大会一年の時は千葉敬愛に負け、二年の時は東金に勝ち、二回戦に鶴舞商が不祥事(自転車人身事故)で辞退、 三回戦で木更津中央(現在の木更津総合)に0対6で負け、三年の時は一回戦で船橋芝山に負けました。 部員は三年の時は三年12人、二年5人、一年9人の26人でした。
 里見公園裏の第二グランドまで道具をリアカーで運び練習をしていました。 グランドは狭く、ライトが60メートルしかなかったので、すぐボールが川に入っ てしまいました。雑草の成長もすごかったので草のためでもボールがなくなり、ボールが10個しかない時もありました。 三年の時に第二グランドが堤防になってしまったので、総武線に近い江戸川河川敷グランドで練習をするようになりました。
 バッティングマシンはなく貧乏クラブには夢でした。 1992年頃(私の卒業後4年後)に初導入され我々の夢はやっと叶ったのです。
 ああ懐かしいです。
40期 難波 克彦


鴻陵祭は宝物!

 私は高校の時生徒会長をしていました。そこで生徒会活動を通じて鴻陵祭に携わることが一番思い出に残っています。
 原案を作り日々会議で審議し生徒一人一人が参加して一つの祭を作り上げていくこと。 運営側として生徒の要望をかなえるために充実した時間を過ごしていました。
 どんなに大変な思いをしても生徒会の仲間や委員会の仲間、何よりクラスの仲間に支えられてやり遂げることができました。
 国府台高等学校で過ごした時間は三年間と短い時間でしたが本当に多くのことを学びました。 そこで得た知識、経験、何より気の合う仲間は今の私にとってもかけがえのない大切な宝物です。
58期 藤河 利恵


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