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国府台高校同窓会会報
第31号
2012年(平成24年)2月15日

(1)

葛南分校創立60周年 記念事業を挙行
葛南分校記念碑除幕式
 「千葉県立国府台高等学校葛南分校記念碑」が、ゆかりの地(欠真間の南行徳小学校)脇の内匠堀プロムナードに完成し、 平成23年8月8日午前、同地にて除幕式を挙行した。
 当初の予定(3月27日)が東日本大震災の影響でこの日に延期されたが、天気にも恵まれ、葛南の会を始め、 関係者60人が元気よく集い、にぎやかな空気の中、厳粛に進められた。
 挨拶に立った葛南の会・東和男会長は、分校建設を切望した当時の葛南地区三町長をはじめとする地元有志の熱意と、 母校の内藤貫一校長の尽力に触れ「昭和26年に葛南地域に初めて公立高校が開校した。 この地域に住む青年にとって大変ありがたいことだった」と謝意を述べた。また、来賓の大久保市長(20期)は 「本日、葛南分校創立60周年と閉校30周年の記念碑が建てられたことは、 『この地に葛南分校があった』ことを後世に伝える意義深い事業だ」と挨拶された。
 記念碑は高さ120センチ、幅50センチのコンクリート製で銘板はステンレス製。

記念祝賀会
 除幕式に引き続き、会場を浦安ブライトンホテルに移し、祝賀会が開かれた。市川市役所行徳支所からは二名参加され、ご祝辞をいただいた。 大規模な集いは閉校以来である。
祝賀会集合写真
  出席された家庭科の大森宏子先生、体育科の中村祐次先生の思い出話に、はるか青春の情景が重なり、思わず涙する姿も見られた。 「わが人生の原点は葛南です」「葛南の碑はわが青春の証になりますよ」「懐かしい人たちに会えてうれしかった」 「同窓の仲間が集まれるってステキ」「絆っていいものですね」「長い年月を経て消息のわからない人が多いのが残念」 「これを機にクラス会を呼びかけたい」「良い企画を立ててくれて有り難い。励みになった」など様々な感想が寄せられ、 和やかな空気の交流の場となった。たちまち過ぎるひと時を互いに惜しみつつ、また会える日を楽しみに散会した。

記念碑


記念碑文面



 同窓会運営にお力添えを
会長 伊能重憲(9期)
 あってはならない大災害の年も暮れようとしています。
 わが同窓会は葛南分校60周年記念事業として葛南同窓生の尽力で校舎跡地の内匠堀に記念のプレートを設置、除幕式ならびに祝賀会を開催、再出発の年でもありました。
 常任理事会では母校創立70周年記念事業に向けての協議が盛んに行われる昨今です。
 同窓会会報の全員配布事業も、賛助金へのご理解とご協力により継続することができ、感謝しております。
 母校の教育活動も積極的に展開され、同窓会としても微力ながら応援して来たところであります。今後とも、できうる限り要望に応えるべく努力したいと思います。
 平成23年度は役員改選の年度であり、引き続き会長職に任じられることとなりました。現任者の任期も長くなっており、役員一同は新風により活動に変化を 求めたいと思っております。多少とも時間的余裕を見出し易い世代の卒業生も増加しているやに思われます中、時に同窓会の運営にお力添えをいただきたく、衷 心よりお願い申し上げます。
 5月の第4日曜日の総会への出席をはじめ、同窓会活動への相変わらずのご理解とご支援をお願い申し上げ、皆様の益々のご健勝とご発展を祈念申し上げ、挨拶といたします。
鬼島校長


母校教頭に就任して
教頭  守屋 嘉之
守屋教頭 新教頭の守屋と申します。昭和52年卒の第29期生です。同期の「ドリカム」、中村正人氏とは3年間同じクラスで、この鴻陵の地で青春を謳歌した者の一人です。
 かつて、母校の凋落・低迷の評に接し、教諭として転勤希望を出したこともありましたが、当時は叶わず、平成23年3月、図らずも教頭職を拝命して母校に戻ることとなりました。
 いま母校は「復権!国府台高校」のスローガンのもと、かつての伝統進学校としての輝きを取り戻すべく、全力を挙げて取り組んでいる所でございます。道まだ半ばではありますが、お蔭さまで多くの方々のご支援とご協力をいただきまして、上方修正しつつあります。
 今後とも同窓会の皆様方にも、相変わらぬご厚情を賜りますよう、心からお願い申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。
   *   *
 同窓生で母校の管理職に就任したのは先生が初めてです。平成23年度総会に於いて同窓会副会長に就任しました。


アルスの森

旧くて新しい
 少子化が進む一方で98%を上回る高校進学率。母校の近隣では市川北高校と市川西高校が市川昴高校に再編されるなど、千葉の県立高校は127校となった。
 その内、千葉、佐倉、木更津、成東、佐原、大多喜、安房、長生、長狭、東葛飾、匝瑳、市原、銚子、船橋、国府台の15校が旧制中学を前身とする。昭和 18年の母校開設の頃、私立中学も成田、関東(現・千葉敬愛)、市川(学園)の三校しかなかった千葉では、進学希望者の増加に受皿が間に合わず、中学進学 率は二割に届かなかった。
 
 公立校空白地域 となっていた市川市周辺の状況は更に切実で、東京での学区制導入によりそれまでのように越境して東京の公立校に進学することも困難となった。新設の市川市 立中学校100名の募集に、地元はもとより東京や他県からも947名が応募。120名合格の真に狭き門だった。
 やがて終戦、学制改革へと時代が進み、県下の旧制中学開設は母校が最後となった。


 

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