第28号 2009年(平成21年)2月15日 (8) |
感性豊かな街の写真家
14期 秋谷征子[あきやゆきこ] さん
| 秋谷征子さんは、生まれてからずっと市川に住み、市川が大好きで、「見慣れた風景がある時変わり、無くなっていくのが気になり」シャッターを切り続けている市民写真家です。 在学中は、クラスメイトとよく山歩きをする等、楽しい高校生活を送られました。 結婚後もセイコーで仕事をされていましたが、ふとしたことから写真に興味を持ち次第にのめり込んでしまい、持ち前の豊かな感性で写真を撮り続けることに なりました。退職後はご両親の介護の傍ら「地域ケア真間」の相談員として地域住民と交流を深め、ちょっとしたきっかけからドンドンと活動が広がりました。 市川で開催される写真展では、数々の賞を取るほどの腕前です。読売大賞に出品し努力賞に入賞されたこともあります。日常の何気ないひと時、ほのぼのと暖かい作品です。 セイコー本社移転で亀戸工場が解体された時には、解体されてから商業地になるまで、五年間の記録を撮り続けました。 「写真は歴史を記録します。そして思いを写します。」そんな気持ちが抑えられなかったのです。 今年十月市川グランドホテルで、セイコー退職者の趣味の展示会が開催され、秋谷さんも写真を出展されました。 「展示用に整理してはいないけど、発表の機会があって本当によかった。」と大変嬉しそうでした。 「古い写真を集めています。その中には懐かしい風景や風俗が写っています。捨てる写真があるなら、どんな写真でも見せてほしい。」 市川大好き人の会を中心に意欲的に活動される秋谷さんは、とても楽しそうに話されました。 |
抄録・その2
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前回に引き続き分校の草創期の様子を「私版・葛南分校史」に寄せられた 旧職員、主事、講師、卒業生の思い出を再構成して紹介します。 |
草創期の葛南分校(二) 創設時の生徒会は設備もなく予算もない。そして夜学というのは時間もない。そんな中で何かをしようとすると誰かの力を借りる他はなく、 いろいろな面でお世話になった。例えば備品箱等は中学校の用務員のおじさんに作っていただいた。 県定時制体育大会の選手のユニフォーム等はとても作れず、女生徒の協力で手作りの“はちまき”で行進した。 バレー部ではボールやネットが買えず、先輩の援助でやっと買えた状態だった。 葛南分校最初の卒業旅行は昭和二十九年十月に奈良、京都へ四泊五日で行われた。往きは急行だったが帰りは十四時間近くかけた普通列車でののどかな旅だった。 宿泊費は一泊三百五十円で生徒一人の費用は予備費を含めて三千三百円なり。参加者は一週間前に米一升五合ずつ持ち寄り、ホームルーム代表がまとめ、 松戸の東葛地方事務所まで持って行き許可をとり、旅館へ送った。こうした作業も含め旅行の計画から実行までのほとんどが生徒の手によってなされていた。 設立時の県の条件は、人件費以外は全て三町で負担という厳しいものであったので、分校運営費として浦安町、行徳町各十五万円、地元南行徳町二十万円を分 担金として支出し運営に充てた。当時の各町の財政規模からして相当高額な支出であった。乏しい予算で諸設備、照明等の設備も思うようには行かず、その都度 浦安町、行徳町に分担金の増加をお願いしたが、生徒数も年々増加し教室の数も必要となり、夜間高校最大の要求である照明度も問題となり、人件費以外は一切 支出しないという県教育庁に再三お願いに出向いた。内藤校長、及川町長の熱意と政治力が功を奏して補助金を出してもらったこともあった。 父兄達も傍観できないと分校に対する関心も高まり、主事先生が先頭に立って各自治会長、会社等に呼びかけ、振興会を発足させて分校運営に協力し定時制高校の形態を徐々に整備した。 |
=編集室= 世の中が騒々しく、気候も不順だった一年。記事集めやインタビュー等時間をやりくりし、協力してより多くの方に楽しく読んでいただこうと努力し、ようやく発行にこぎつけました。 これからも皆様に愛される同窓会会報を目指して頑張ります。 |
委員長 | 菅田 鐵雄 |
9期
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編集長 | 流川 呉生 |
20期
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編集員 | 井桁美樹子 |
5期
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竹内 喜忠 |
14期
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池田由紀子 |
20期
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柴田 幸治 |
20期
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飯田 幸治 |
35期
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