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「国府台高校」が国府台に落ち着くまで |
昭和18年(1943年)4月、「市川市立中学校」として創立された本校は、市川市立中央国民学校の敷地(現在の平田小学校)に設置
された「仮校舎」での開校でした。
「仮校舎」とされたのは、現在の市川第三中学校の敷地に建設する計画だったためです。この計画は幻に終わってしまいましたが、計画通りに進められていれば
校名に「国府台」の地名が用いられることはおそらくなかったでしょう。
平田時代については、現在のところ掲出できる資料がありません。ご了承下さい。 |
昭和19年(1944年)秋、同居していた市川市立中央国民学校の校舎が火災で消失。
それを機に現在の宮田小学校の敷地に移転し、終戦を迎えました。
4月、市川市立高等女学校が創設され、市立中学校が移転したあとの宮田の敷地で開校しました。
西側は現在の一中の部分も本校の敷地で江戸川の河岸まで達していました。南側の和洋とは直接境界を接していました。北側には、明確に境界を示 すものものもなく、里見公園方向の近道として、一般の人が敷地内を通行することもあったという話です。
校庭から正門方向(1946.12 奈良輪校長離任式)
生徒控室 (現在の一中側境界付近) 戦時中は砲廠(大砲の格納庫)でした。
屋根に窓状に穴が開いていますが、空襲に飛来したB29に向けてここから高射砲を撃ったそうです。
第一校舎
第二校舎
昭和22年(1947年)1月1日、市川市立中学校は「市川市立国府台中学校」と改称しました。
高等女学校入学記念写真 - 昭和21年(1946年)4月25日撮影 - 終戦からまだ間もなく、写真自体が貴重な時代でした。校舎はあくまで背景ですが、宮田校舎の様子をうかがえる点でも貴重な写真です。
昭和23年(1948年)4月1日には学制改革が実施されました。
市川市立国府台中学校時代の正門
- 昭和22年(1947年)11月1日撮影 -
あまり鮮明ではありませんが、門柱には「市川市立国府台中学校」の表札がかかげられています。
市川市立国府台中学校は「市川市立国府台高等学校」と改称されました。昭和24年(1949年)4月、女子部が国府台の校地に合流しました。
市川市立高等女学校は市川市立国府台高等学校に統合されることになりましたが、「女子部」として引き続き宮田の校舎を使用しま した。
昭和25年(1950年)4月1日、国府台高等学校は市川市から千葉県に移管され、
「千葉県立国府台高等学校」として国府台の地に歴史を刻みはじめました。
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