発行所 千葉県立国府台高等学校同窓会 広報委員会
市川市 国府台 2-4-1
発行責任者 加藤 徹
中村正人(なかむら・まさと)国府台高校29期。1958年10月、東京生まれ。市川市立第一中学より国府台高校に進学。1988年に「DREAMS COME TRUE」結成。1989年デビュー、その後ミリオンセラーを連発。「史上最強の移動遊園地DREAMS COME TRUE WONDER LAND 2011」では、国府台高校吹奏楽部卒業生を中心にした吹奏楽団と2曲を共演。
なぜ国府台高校に?
当時は中国分に住んでいたので、一中時代から鴻陵祭の雰囲気は見ていましたし、ロック同好会の音も毎日聞こえてきていました。校門前を通りかかりながら、見える様子がすごく楽しそうで、親近感があり、それが国府台に行きたいと思った理由ですね。
入学して印象は変わりましたか?
変わりませんでしたね、中高一環みたいな感じで自然に馴染めました。僕たちが入学したのは'73年ごろ。学生運動の最後のころで、世間では70年安保が盛り上がっていて、学内でも制服反対や移転反対を盛んにやっていた時代でした。中学時代はテニス部でした。当時「エースを狙え!」が流行っていましたからね。そのテニス部の部長が当時で言えば「不良」で、エレキギターを持っていたんです(笑)。学校にエレキを裸でしょってくる生徒もいました。国府台も、ロック同好会は怖い先輩たちが多くて、それにおびえながらひっそりギターをやっていました。そのころ「フォークソング同好会」はまだできてなかったんじゃないかと思います。生徒会館の別館の二階に布団を敷き詰めて練習していました。
その頃から音楽家を目指していたのですか?
いえいえ(笑)。まともに練習していた気はしないですね。
ではなにをされていましたか?
文化委員会です。一年の時から。文化委員会がすべてでした(笑)。文化委員会に行くために学校に通っていたようなものでした。木造校舎の二階に文化委員会室があって、そこに入り浸っていました。
29期はクラス替えがない代だったけれど、どんなクラスでしたか?
うちのクラスは、みんな部活で忙しかったから、もめごともなくて、平和だった記憶しかないですね。高校時代で思い出深いのは、なんといっても文化祭(鴻陵祭)ですね。後夜祭で「遠い世界に」や「校歌」をいつまでもみんなで合唱していたのもよく覚えています。野外ステージの責任者もやりました。
卒業式や予餞会では「スペシャルセッションバンド」をやって大人気でしたよね!
それだけじゃなくて(同じクラスの)大石泰夫君たちがやっていた演劇部でミュージカルみたいなことやっていたので、豊岡正幸君(ピアノ)たちと一緒に参加しました。そうそう、合唱祭では、僕が人生で最初にアレンジした曲を発表しました。
どんな曲でしたか?
「山口さんちのツトム君(作詞作曲:みなみらんぼう)」です。卒業時にもらったソノシートで、ちょっと聞くことができます。
編集部注 : これ の2分50秒あたりです。
ドリカムを聴くと国府台を思い出す、という同窓生も多いようなんですけど、当時のことって影響していますか?
鴻陵祭でライヴをやったのがやっぱり完全な基礎になっていますね、ファンキーな曲を演奏して誰にもウケなかったりとか(笑)。今はコンサート制作等を当たり前のようにやっていますが、あの頃の経験がものすごく活きていると思います。
スペシャルセッションバンドっでもアレンジしてませんでしたか?
あれは殆どがヘッドアレンジ(注;楽譜を書かずに口頭で流れをきめること)でしたね。あのバンドには5組の山﨑君や田村君(29期・山﨑 信さん、田村和彦さん)とか、スターがいましたからね…いまでこそこういう仕事をしていますが、あの頃は人の後についていくというのが普通でしたから…僕はリーダーシップとかを発揮するタイプではなかったです。大学に入ってからは風間さん(21期・風間健典さん)のところ(「市川フォーク村」)で音楽活動をしているなかで、千葉出身の宇野さん(27期・宇野貴弘さん。ギタリストとして同期・瀬尾昌也、佐々木均両氏とともに「MAYA」を結成、鴻陵祭では他校から多数のファンが押し寄せた)や濱田尚哉さん(プロドラマー)らと知り合って、さまざまなアマチュアがプロとして育っていくのを脇で見ながらいろいろ助言するようにはなったけれど、高校時代はそんな感じではなかったですね。文化委員会でも、委員長の中村君(29期・中村一哉さん)かシタマル(29期・舌崎士郎さん)とか、そういうリーダーたちからのミッションを一所懸命忠実に遂行するのが僕の役目でした。それは今も変わっていないです。僕はバトラー(執事)ですからね。
ドリカムサウンドには管楽器が活躍しているけれど、国府台高校の吹奏楽部も影響があったとか?
当時はディキシーとかやっていましたよね。吹奏楽部がクラシックじゃなくてそういうのをやるというのはなかなか他では味わえない経験でした。同期の柴田君(29期・柴田孝一さん)にくっついているといろんな体験ができて、彼のおかげでホルストやワーグナーとかがどんどん好きになって、それが僕の今のアレンジに絶大なる影響を与えました。「チェイス」とか「BST(ブラッド・スェット&ティアーズ)」とか「クール&ザ・ギャング」、そして「EWF(アース・ウィンド&ファイヤー)など、ブラスをフィーチャーしたバンドがちょうどたくさん出てきた頃で、すごく勉強になりました。
でも吹奏楽部には入らなかった(笑)
入らなかったですね(笑)。吹かせるのは好きですが(笑)。演出でトランペットを持ったことはありますよ。
改めて聞きますが、なぜベースを選んだんですか?
たまたまです。「市川フォーク村」でギターを習っていたんですが、あまり上達しないので、こういうのがあるよ、と渡されたのが弦が4本しかない楽器でした(笑)。
でも今や専門誌「ベースマガジン」の表紙を飾るくらいになられたとか?
やめてくださいよ(笑)いまだに恥ずかしいです。
しかし中村さんがそうやってブラスに興味持ってくれていたおかげで、2011年には吹奏楽部の卒業生を中心にした吹奏楽団とのコラボが生まれましたよね。僕らは「ドリカムブラス」と呼んでるんだけど、57期の鬼澤さんはそこに参加されていました。
ありがとうございます!あの時、もっと交流できると思ったんですが、あまりにも忙しくて、それが今でも心残りです。
(鬼澤)素晴らしい思い出を、ありがとうございました!忙しいのに楽屋に来ていただいて、一緒に撮影させていただいた写真は宝物です。あのとき、最初は現役にお声かけいただいたんですけど、彼らがコンクールだったので、卒業生同期10人くらいで参加させてもらったんです。もうみんな、即答で参加表明してくれました。5万人くらいのお客様をステージから、「ドリカム」の後ろから見られた、というのはもう一生の思い出で、いまでもみんなで集まるとその時の話で盛り上がるんです。いまはなかなかカラオケに行けないですけど、あの曲(「生きてゆくのです」「カルナヴァル」)は私たちのカラオケ定番曲です。おかげでみんなの絆が深まりました。
ありがとうございます!あれは2011年でしたね。いまは全国の高校ではダンスも盛んで、そういう学校とのコラボもやっていますが、マーチングや吹奏楽とのコラボもまたやってみたいなと思っています。層が厚いですよね。Zoomを使って合奏など、新しい試みにどんどんトライしているのも素晴らしいし。さらに発展した形でなにかやりたいとは思っています。いまは新型コロナウィルスの影響でいろんな制限が増えちゃったけど、これが僕たちの「新しい環境」。だから、こういう環境で生きていける生き物としてのスキルを上げていかなきゃならない、と思っています。ネットのクリエイターの方達は、もともとステイホームなわけだから「コロナ騒ぎ」なんて関係ないわけで、僕たちみたいなアナログな生き方をしてきた人間は、スキルを上げないと表現したいこともできなくなっちゃう時代ですね。ドリカムも、去年(2020年)のリアルなツアーは中止しましたが、その代わりにインターネットライヴをやってみて、そこから学んだものはものすごく大きかったし、レコーディングの技術もあがりましたね。
還暦超えて、まだまだやることがあるのに気づいた、という感じですね。
そうですね…だけどやっぱくたびれますよね(笑)
えー、見てる側からは全然感じませんけど(笑)
僕はもともとはすごく頑固だしアグレッシブだったんですが、あきらめることも学んだし、歳を重ねたからといって大人になるわけじゃないというのもわかりました。だから、今はすごくフラットになって、いい感じだと思っています。「還暦」、つまり60年生きてきて、振り出しに戻るだけかどうか…振り出しに戻る、というのは今までの考え方だから。60というのは数字としてはまとまりもいいから、ひとつのキリとしてはいいと思いますね。生まれてから死ぬまで、自由に走るだけ…というか、神様もそこまで暇じゃないから、ひとりひとりケアしてくれない(笑)。生まれたり死んだりする時は神様が決めるけれど、その間は自分で好きなようにやらしてもらおうかなと思っています。
ところで、国府台全体の同窓会「鴻陵会」って存在、知っていましたか?
知りませんでした。
今度80周年を迎えるんだけど、そのころにはまた何かやれるといいなと思っているんです。
その頃、どんな状況になっているか、ですね…国府台は演劇とか吹奏楽が盛んだからそういうのが盛り上がるといいですね。
そういえば同人誌、やっていましたよね。
覚えてますよ、一所懸命ガリ版切っていました(笑)
今はサンプルが行方不明なんだけど、中村君の書いた小説では夜8時過ぎに女の子に電話をかけてドキドキするようなことが書いてあったのを覚えてます(笑)。
やめてくださいよ、恥ずかしい(笑)
恥ずかし話のついでに…同じクラスの田久保洋子さんって覚えてますか?
同じクラスで、進学した青山学院大学でも一緒でした。
(鈴木)実は私は彼女と家が近くて、今でもいろいろお話しするんだけど、中村君って青学卒業が危なくって田久保さんにお説教されたという話きいたんだけど。「ちゃんと卒業しなさい!」って。
覚えていないです(笑)卒業がアブナイなんてもんじゃなかったですよ、一年の時から大学には行ってなかったですから(笑)。父親の夢は、僕が大学を無事卒業することだったので、とりあえず履修届はちゃんと出して三年まではいたんですが。
(同)学部は?
英米文学科。
(同)じゃあ優秀だったんじゃない!卒業しないでもったいないと思わなかったの?
罪悪感の365日×3年間でした(笑)
(同)あたし息子がいるんだけど、彼が大学時代の最後に「ドリカム」の東京ドームに連れて行ってくれたの。ドリカムって世代を超えて愛されているのがすごいね、息子とも共有できたのがうれしい。
ありがとう!
(同)いい音楽をこれからも聴かせてほしいですね。クォリティの高さが素晴らしい…今は言葉が大事にされていない時代なので。イントロから心をつかまれちゃうから…それは中村君の力だと思ってます こういう時代だとどんな曲がうまれるのかなと、楽しみにしてます。
YOASOBIに負けないよう頑張ります(笑)
(鬼澤)ドリカムの歌は大合唱できるのがすごいですよね。世代を超えて受け入れられる曲が多いと思うんですけど、そういうのは考えて作っているんですか?
吉田(美和)とはいつまでもポップスのバンドでいたいねという話をしています。ポップスというのは、弾ける(POP)という意味や、大衆的(POPULARITY)などの意味から来た、と言われていますが、時代が変わっても昔の名前で出ているようなのは嫌で…常に最新曲が一番ヒットしている状態でありたい、と思っています。最近ではヒットの在り方もかわってきて、動画の再生数やサブスクリプションの数字がすべて、みたいになってきていますが、僕はポップスの名曲を作りたいというのが基本にあるんです。
何を自分たちの主張として残していくか…クライアント、スポンサーの意向、リクエストによってものをつくる、というのはそれこそレオナルド・ダ・ヴィンチの時代からあったわけだけど、それらは作品を作るきっかけに過ぎない。時の流れの中でそういうリクエストなどはいつしか洗われてしまって、ただ作品だけが残っていく…つまり、本質的なものしか残らない。そういう、時の流れに洗われた後に残るものがつくりたいなと思っています。言葉は悪いですが、死んだ後に評価されるのではだめだと、僕個人としては思っています。同じ時代を生きる人間として、作品を出した瞬間に評価=結果が出るようなもの、同じ時代の人たちとつながっている証となるようなものをつくっていきたい。それはどんな仕事でも一緒だと思います。環境が変わったらその環境に臨機応変に対応しながら、同じ質感の楽曲を作り続けていきたいと思っています。
実際、小学生や中学生は、もう「ドリカム」のこと知らないんですよね。先日クイズ番組で、短縮言葉の原型は?という質問があったのですが、「ドリカム」がね、わからなかったみたいで(笑)だから、インターネットの世界で自由に活動できるアーティストをつくっておこうと思って、「ヴァーチャル・ドリカム」を作りました。実際「彼ら」(ヴァーチャル・ドリカム)は、イベントやテレビ番組にも出演したり、タイアップを獲ったりもしています。世代を超えて、とよく言いますが、その「世代」そのものが今大きく動いていますからね。地道に、種をまく作業も大事。両方を、ダイナミックかつ継続的に行う必要がある。ダンスパフォーマンスと結びつけた「ドリカムディスコ」とかも始めてみました。
編集部注 : 参考までに、こちらをご覧ください。
(同)あのリミックスもすごい好きです。バラードだったものがガラリと変わって、かっこいいダンスミュージックになっていたりして…
リミックスではなく、コンヴァージョンという言葉を使っているんです、自分たちで作り直しているわけだから。あとは歌詩集とか。メロディと歌詩を切り離して紙の上に存在させる試みなどですね。
なんか音楽誌のインタビューみたいになっちゃたけど、非常に勉強になります。
最後に、いま高校の現場は新型コロナウィルスの影響で、とても混乱しています。もちろん同窓生も、さまざまなレベルで混乱している…そんな同窓生へのメッセージを。
「国府台」は、僕たちがいたころから真の自由がある学校だった気がします。いわゆる学生運動の末にあるような「自由」じゃなくてね。単に個々の個性を尊重する、というだけじゃなくて、みんな割と客観的だったんじゃないかな…戦後世代からみると白けてるように見えたのかもしれないけれど、お前はお前、僕は僕、なんてね。そう言いながら、どんなエリートもアウトローも、一緒に合唱祭やっちゃうとかね…個々の生き方を自分のペースでがんばりながら、チームで動かなきゃなんない時は一致団結する。その最大の果実が文化祭、鴻陵祭だった、と思っています。
僕たち29期は各校ごとの試験で入学した最後の世代(30期から学校群制度が導入された)でしたよね。だからみんな「国府台に入りたい」と思って入ってきたわけで、国府台が好き、というか、国府台生というのはこういうもんだ、という認識が共通していて、それがひとつのルールみたいに感じていたと思います。そこからスタートして、それぞれ不良になったりエリートになったり(笑)個々が自分のペースを守りながら、団結したりぶつかったり離れたり、自由にできた学校だったんだと思います。少なくとも僕のクラスはそんな感じだった。
今の混乱した時代に大人であることを求められる世代になったけれど、今でもあの頃の感じをヴィヴィッドに思い出せたなら、それはすごく役立つんじゃないか、と思います。例えば今はイベントができないとか、いろいろ大変だけど、例えばうちの娘は、運動会ができなくても、なんとも思わないんだよね。なんでそんな無感動なんだ!なんて思いがちだけど、そう決めつけるのではなく、彼らの話をよく聞いてあげられる「懐の深さ」みたいなものを持てるんじゃないか、と思います。我々の考え方を押し付けるのではなくてね。今の子供たちはものすごい「オトナ」ですからね、僕たちのころに比べると。だから、逆に言うと、我々がしっかり彼らから学ぶことが必要かもしれない。善人になる必要はないけれど、傷つけたら傷つけられる、ということを分かってさえいればいい。悪いことやっちゃったなと思ったらいいことをすればいい。プラスマイナスゼロなんだろうね。我々の時代からみるとみんないま弱いから…だけど弱いからといって生き延びられないわけじゃない。この話になると、臆病者だった哺乳類がなぜここまで生き延びられたかという、長い長い話になっちゃうんだけどそれはまた別の機会にね(笑)。
インタビュー :
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取材協力および写真提供 :
編集部(29期 榎本弘良)
21期・風間健典
29期・鈴木(現・大野)郁子
29期・斉藤(現・森)若奈
57期・鬼澤文乃