同窓会会報 WEB版

第35号

平成28年2月7日 発行


発行所    千葉県立国府台高等学校同窓会 広報委員会
        市川市 国府台 2-4-1
発行責任者  伊能 重憲

伊能重憲会長(9期)再任   平成27年度定例総会

 平成27年5月24日、母校会議室に於いて平成27年度定例総会が開催された。
 始めに伊能重憲会長より挨拶があり、本城学校長より挨拶と母校の近況について説明があった。 また、橘信行教頭と新たに着任された佐藤克文教頭より自己紹介と挨拶があった。
 議事に先立って山中勇氏(22期)が議長に選出された。
 まず『役員改選について』が議題とされた。前回の役員改選では創立七十周年記念事業が進行中だったため、役員の入れ替わりなく再任という形であった。 しかし、今回は伊能会長続投の一方、加藤徹理事長が理事長兼務のまま副会長に就任するなどの内容の役員表が示された。 伊能会長からは「来るべき役員の世代交代に備えた布陣」との説明があり、全ての役員が信任を受けた。
 続けて、『26年度事業報告』『26年度会計報告』『27年度事業案』『27年度予算案』について順次審議が行われ、それぞれ原案の通り承認された。【関連記事
総会 議事終了後は例年通り懇親会に移った。 すっかり恒例となった野球部父母の会による応援タオル頒布と野球部の活動状況報告に沸いた。 更に、本城校長、佐藤教頭、橘教頭を交え、それぞれに近況や抱負、在学当時の思い出など、語らいのひとときを過ごした。
 遺憾ながら、今回の総会では参加者が三十名を割り込んだ。加えて、三十歳代以下の参加者が皆無であった。 会員数二万人を擁する組織の年次定例総会としてはあまりにも心もとない。 「高齢化」は、同窓会活動継続のための世代交代の観点からも看過できない。 役員を含めた総会の参加者はこうした状況を認識し、常任理事会に於いて同窓会活動の継続とそのあり方について根本的かつ具体的な検討に取り組むこととなった。

◇ 同窓会活動継続のための課題を考える

行事等参加者の減少・高齢化
 総会の参加者の状況については、総会記事の通りである。
 同窓会の他の行事でも同様の事態が生じている。 平成6年実施の創立50周年祝賀会では800名を超えていた参加者が、平成26年の70周年祝賀会では270余名となり、参加者の年齢構成の高齢化も顕著であった。 社会・経済情勢の違いのみで説明するには無理がある。 周知の不徹底、会員の要望と実施内容との乖離などが考えられ、同窓会活動への参加の働きかけや活動内容に対する会員の意向の反映の方法に改善の余地があろう。 特に若年の会員については、SNSを通じた情報提供など、その世代の生活実態に即した配慮をせねばなるまい。

内部組織の振興
 「クラス会、同期会やOB・OG会には関心があるが、学校全体の同窓会との関わりには実感がない」という声も多く聞かれる。 こうした身近な集まりの振興を図り、個々の会員との結びつきを仲介する組織的機能を強化する必要がある。
運営の担い手(役員・委員)の確保と世代交代
 同窓会の運営を実質的に担う役員・委員は、ボランティアということもあり慢性的に成り手の不足に悩まされているが、 人選と任用の方法に課題があり、機能的な運営に支障を生じている。運営組織の弱体化は同窓会組織全体の弱体に直結するもので、改善が急がれる。

活動拠点の確保
 人的資源確保の一助となりうるのが同窓会の事務処理を継続的に行うための拠点の確保である。 母校の施設は、一時使用は可能だが、現状では恒久的に場所を確保することは不可能だ。かといって、現在の本会には賃貸借で物件を確保できるほどの財力がない。

各位のご協力を!
 常任理事会に早急かつ適正な対応が求められるのは言うまでもないが、結局のところ会員各位のご理解を拠り所とする他はない。 同窓会活動への積極的なご貢献を心からお願いするものである。

◆ご意見ご要望をお寄せください。


日本庭園『静閑苑』竣工

創立70周年記念事業完了

静閑苑  母校創立70周年記念事業を締め括る「校内環境整備助成事業」として、中庭日本庭園の整備が完了しました。 平成22年に青木利男氏(9期生)が学校に寄贈された枯山水一式を中庭に設置のうえ、周囲の樹木や植栽等をあわせて整備し日本庭園として設えたものです。
 庭園は竣工を機に、学校に安らぎをもたらす静閑な空間として親しんで欲しいという願いから『静閑苑』と命名されました。 ちなみに、静閑という文字の中には寄贈者の姓から「青」「木」の文字を潜ませています。 中村祐次先生(1期生)の筆による銘板が設置されました。
 同窓生の皆さんも母校を訪れた折には是非ご覧ください。
 


アルスの森 『兵舎と校舎』

 太平洋戦争のただ中、母校の前身市川市立中学校開校のため市川市の関係者は奔走を続け、宮久保・曽谷の校地(現在の三中)と予算を確保。 だが、新校舎建設には物的資源も人的資源も極度に不足。平田の仮校舎での開校となった。
 終戦を迎え、国府台の陸軍部隊跡を学園地として整備転用すると決まり、母校は昭和二十一年三月移転した。 現在の一中も含めて江戸川までが本校の敷地だった。
 国府台一帯の軍用地は、もともと明治初期の大学校構想を機に急速に国有化されたもの。 大学校となるはずの用地に建てられた兵舎が校舎に……。 「戦争」が政治に包括されることの裏返しとでも言うべき巡り合わせか。
 母校では移転を機に改称を検討。国府台の地名を冠し、市川市立国府台中学校とした。 新制高校昇格、県立移管を経て千葉県立国府台高等学校へと、七十年後の今日に受け継がれている。 もし、当初の計画通り開校していたら……。これもひとつの巡り合わせか。

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