第31号 2012年(平成24年)2月15日 (8) |
行徳を愛し続ける
葛南分校7期 藤原孝夫さん
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行徳の海苔漁家に生まれた藤原さんは、高校に通いながら、本格的に海苔の養殖に取り組んだ。毎朝、行徳橋から1時間半かけて養殖場のある三番瀬に通った。
昭和38年にエンジン付の船が導入されるまで手漕ぎの船を使用し、手作業で海苔を採り、次の日に干す。家族総出で多い日には3000枚の海苔を天日干し
た。 昭和39年から浦安の埋め立てが始まり、完成すると徐々に潮の流れが悪くなり、漁場はとうとう池のようになって、廃業する漁家が続出した。現在は行徳漁業組合員60名のうち海苔の養殖に携わっている漁家は6名までになっている。 平成10年頃から市川市内の小学校13-14校を対象に3年生の体験学習として海苔作りの過程を指導している。年間に3-4校、一校に対しては3年に一度、順番待ちの人気体験学習となっている。 |
小学校に出向き、海苔をすき、乾かす作業を生徒に体験させる。3時間ほどかけて二枚の海苔が完成する。大変な時間と労力を費やし、ようやく一枚の海苔が
出来上がる過程を、体験した生徒たちの歓声と笑顔、そして感謝の気持ちが伝わる。藤原さん自身も充実感を味わうことが出来る瞬間である。そして何よりうれ
しいのが、生徒一人一人が必ず送ってくれる丁寧なお礼の手紙。今ではその手紙の束が藤原さんの宝物だそうだ。
藤原さんの現職は不動産管理、月に7日程船長として東京湾の監視船、水質調査船で青潮対策管理等の調
査をしている。 また、市川南ロータリークラブに属し週に一度の例会に参加するなど、精力的に活動し、平成十八年には会長を務めた。他にも、行徳警察署警
察官友の会の会員でもある。平成18年には永年の国民健康保険運営協議会委員としての努力が認められ県知事から、今年の3月には市川市の大久保市長からも
感謝状が贈られた。地域の子供会の世話や青少年相談員等を務め、千葉県教育功労賞を受賞されるなど、行徳のために精力的に活動している。
子供たちの歓声と笑顔に包まれ、地域の方々と地域のために尽力する藤原さんは、行徳を愛し続けている。 |
抄録・その6(最終回)
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京葉道路、地下鉄東西線の開通、高度の経済成長など、時代の流れには逆らえず、葛南分校は終焉へと進んでいった。 |
昭和40年代の葛南分校 昭和48年から51年にかけて、全国的にも定時制高校入学希望者が減少の傾向にあったが、葛南分校でも生徒数が激減し、学校訪問、公的な広報利用の入学案内、駅のチラシ等、生徒募集のためいろいろと苦労していた。 そんな折、昭和51年9月、千葉県教育委員会は「葛南分校を移転させたい」との意向を明らかにした。校舎の極度の老朽化、葛南地区の社会情勢の大きな変 化、また葛南分校が借地している南行徳小学校のマンモス化による義務教育の施設設備の拡充の要求などが理由に挙げられ、53年度には行徳高校か浦安高校へ の移転を考えたいというものだった。 この問題をめぐる論議が進むにつれ、移転計画の実態は葛南分校の廃校であることが明らかになった。教育環境としては決して良いとは言えないものであった が、いろいろな年齢の人が席を並べ、全校がひとつの家族のように接する葛南分校での生活を経験し愛着を持つ教職員、在校生、同窓生から「定通教育の振興と は何か!」「私たちの葛南分校をつぶすな!」の声が噴き上がった。署名請願や県議会傍聴、教育委員会との交渉、新聞を通じてのキャンペーン等、さまざまな 手を尽くしての分校存続運動が1年半にわたって展開された。 | 移転計画への対策を呼びかける生徒会掲示板
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昭和53年4月、1年生は行徳高校定時制の生徒として入学、2年から4年は国府台高校葛南分校生となった。生徒会、
クラブ活動は行徳高校定時制として活動することになった。
「国府台高校葛南分校生はその校名の下で卒業させること」「行徳高校でも定時制独自の校舎で学べる環境を整えること」などが
分校存続運動を通じて出された要望として受け入れられた形となった。
6月には行徳高校への移転が完了し、南行徳小学校敷地内の旧校舎は12月に解体された。 昭和56年3月、27期卒業生を最後に国府台高校葛南分校は行徳高校定時制へと発展的に解消され、30年の歴史を閉じた。 国府台高校同窓会葛南分校支部は総会を開き、支部を解消のうえ本校の同窓会に合流して活動することを決めた。 |
移転先 塩浜の行徳高校校舎
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移 開 閉 転 く 鎖 を こ さ 告 と れ げ の て る な 二 貼 い 度 り 玄 と 紙 関 と |
後藤 友良(1) 吾等は80歳になりました。毎月今でも13名ほど集まります。 山本 博司(1) 旧制中学一期生、五年で卒業。卒業して60年以上。今も同級生と旅行、会合をして楽しく過ごしています。 佐久間悦治郎(2) 第二期同窓生の会“鴻貳会”も全員今年80才となり、会存続が難しいので納会することになりました。誠に残念です。 川俣 信子(4) 元気な内に来校してみたいなあと思っています。いつも大変皆様にお世話になりますありがとうございます。 新屋敷 恪哉(4) いつも会報ありがとうございます。国府台の音楽部以来合唱を続け現在も『あ・かぺら』60sという早大グリーの同期で結成した小結成のコーラスグループで男声合唱を楽しんでいます。縄文時代にも関心を持ち文献中心に古代の生活や日本語の発生のなどを散策しています。 相馬 淑子(4) 相馬淑子は平成22年4月1日に亡くなりました。会報を停止してください。ありがとうございました。<甥> 土屋 光(7) 2011年11月に同期会を開催42名が集まりました。次回は3年後「喜寿を祝う会」を予定しています。 小栗 登美子(7) 賛助金協力者名簿の中に懐かしい方のお名前を見つけ、五十数年前に思いを馳せております。皆様のご健勝を祈っております。 内田 きみ子(7) 創立70周年、そして、我々7期生の喜寿も近づき何かと楽しみな昨今です。先輩、後輩の皆さんが一堂に会する。今から胸躍る思いです。思い出に残る祝賀会を。 浅賀 正義(8) かつて北島校長、鬼島校長は同僚でした。会報なつかしく読んでいます。 田中 愛子(9) 8期生澤村晶子さん1月14日御逝去。江戸川区職員として長く保育園長として活躍され二百人余の同僚後輩におしまれつつのお別れ会に出席してきました。“オバケなんてないさ”の作詞者。 松丸 博昭(13) 地元の市川市内で防犯パトロールとマナーサポーターのボランティアをしています。昨日は「防犯功労者」として表彰されました。五関善四郎先生のクラス会 は10年以上毎年実施しています。20名ほどの仲間が集まります。先生の健脚には皆驚いています。因みに大久保市長は小、中、高の後輩です。 |
三浦 多恵子(17) 2010年12月の17期同期会に参加できて、うれしかったです。卒業以来の再会でもあの頃に戻れる同窓会マジックですね。楽しかったです。 石橋 敬子(18) 西部公民館、市川公民館にて、ジャズのスタンダードナンバー、オールデイズ等を歌うサークルを開いています。 植田 洋一(18) 賛助金の氏名欄になつかしい名前を見つけました。このコーナーは一種の近況報告かもしれません。18期生は頑張っています。まずは、復権国府台高校の実現に期待します。 多田 光(21) 二十年以上高校の同級生やラグビー部の同輩とも連絡取れていません。住所録なども紛失してしまい、住所も変わって現在兵庫県に住んでいます。もう還暦も過ぎたので、もし連絡取れれば元気なうちに会って顔を見てみたいと思っています。 石川 恵美子(22) 大木先生は三年のときの担任でした。今でもお元気でご活躍のご様子をとてもうれしく思います。同窓会報を読むと高校時代がなつかしく思い出され、元気が出ます。役員の皆様の日頃のご活躍に感謝申し上げます。 宮本 克己(22) 携帯小説に作品を発表しています。 寺内 左衛子(33) 最近子どものお母さん仲間に次々と国府台卒を発見!盛り上がっています。 佐藤 道代(39) 90年代単身NYに行き、大学院でダンス教育を学んでミュージカルやモダンダンスに出て、2000年から日本で踊ったり、教えたりしています。国府台高校で山火先生からダンスを教わったのがきっかけです。 森本 純(41) 日本画家としてスタート。今春、“東京芸術倶楽部”で「二十一世紀展」に出品。 津田 由香里(56) 私もダンス部に所属していた時期がありましたので、ダンス部の活躍にとても嬉しく思いました。国体頑張って! 椎橋 美代子(事務) 地域・高大教育連携が相次ぐ「生徒の大学聴講を許す!提携6校目は国府台高」22年4月10日付け国学院大学報で見ました。御校の発展を喜ばしく思います。 |
=編集室= | ||||
今年は、賛助金振込票のメッセージを多く掲載できました。気軽な一言が同窓生の心に響くのではないかと喜んでいます。同期会、クラス会、OB会、有志会等の情報も引き続きよろしく御願いいたします! |
委員長 | 菅田 鐵雄 |
9期
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編集長 | 流川 呉生 |
20期
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編集員 | 井桁美樹子 |
5期
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竹内 喜忠 |
14期
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池田由紀子 |
20期
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柴田 幸治 |
20期
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飯田 幸治 |
35期
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