同窓会会報
第24号

2004年(平成16年)11月15日

(2)

ミニレター 同窓会・クラス会・部活OB会.....
やった、やるよ、やりたいな。報告、予定のミニレター
14期(S37年卒)
人生これから
14期
 昨年十二月中旬の土曜日の夜、 レインボーブリッジが見渡せる浜松町の「アジュール竹芝」で、クラス会を開きました。前回の湯河原一泊から数えて一年八ヶ月ぶりです。恩師関川先生を囲む 十八名は誰もが還暦.社会の第一線を退き第二の人生に踏み出す面々です。楽しく和やかな中にも落ち着きと「人生これから」の気持ちが強く感じられました。
 先生はクラス全員の名前を記憶され、行動力と話し方は我が高校生時代と全くかわらず元気いっぱいです。先生から我々が元気をもらった次第です。
 クラス会の幹事は毎回代えて男女二名で担当しています。次回は関西方面で、関西在住の人が企画中です。
 ちなみに私は母校創立六十周年祝賀会に出席し、先生、先輩、後輩のみなさんと語り合えました。また五月の同窓会総会に出席し、何十年ぶりの校内を巡り、 昔を懐かしんできました。
 母校とは素晴らしいものです。
竹内 功

26期(S49年卒)
三十年ぶりの応援エール


 二〇〇四年六月六日、昭和四十九年三月卒業、二十六期の第一回同期会が市川グランドホテルで開催されました。
 卒業から三十年。集まったのは百六十人。石井文一郎先生(一組担当)山下忠夫先生(五組・二年次)坂本直先生(五組・三年次)森山淑夫先生(六組)岡野 照先生(七組)江間実先生(八組)の六名の恩師にも出席いただきました。
26期恩師 26
 しゃべりっぱなしでも尽きない国府台の思い出の数々。最後は、これもまた三十年ぶりに急きょ再結成された応援団の絶叫型エールに合わせて全員が校歌を斉 唱し、異常な盛り上がりの中閉会しました。
 国府台のよき伝統に改めて接し、また何か新たな熱きものを学んだような気がしています。
山名一郎

14期(S37年卒)
還暦記念の同期会
14同期会
 二〇〇三年秋、還暦を機に、卒業して初めての同期会を都内で催しました。
 わが期は三年間同じホームルーム。クラス会ならぬ同期会同期会には不慣れで、幹事は大奮闘されたとか。
 6クラスの担任の内、斯林・姫野・岡部先生は先生はすでにご逝去。でも当日は、若尾・関川・勝先生、それに音楽の森先生までお元気な姿でご出席され、校 歌斉唱ともども会場は大いに盛り上がり、集いは大成功でした。
 ♪秋風過ぎ行く里見の城址 わが師を囲みて語るは紅葉 …おお国府台高校
竹内喜忠

想い出
青春の思い出

 遥かかなたの記憶をたどれば、期待と希望に胸おどらせて正面に青年の像を見ながら校門を入った。旧校舎は廊下も教室も薄暗く、廊下にはボートとオールが 無造作に置かれ、とてもきれいとは言えなかった。
 恩師は苅米先生で、元気の塊のようなご性格は今もなおご健在であろうと拝察する。その元気以上の若さとエネルギーに満ち溢れていた級友は、今も全国でそ れぞれ活躍のことと思う。
 私の高校時代は部活のバレーボールに明け暮れ、文化祭では出店の雑貨を手作りしたり、ギターや歌を披露したりと楽しいことの方が思い起こされる。里見公 園や江戸川沿いのマラソン大会で二位の成績を収めることもできた。すべて自己の前向きな負けず嫌いの性格による所が大きかったように思われる。
 現在は、高校時代の愛読書“風と共に去りぬ”名台詞「明日は明日の風が吹く」をモットーに、スカーレットオハラの様な波乱の人生真只中である。
村越由美 
25期(S48年卒)

心に残る市川市立中学

 国府台高校創立六十周年記念祝賀会開催の方に接し心より賛辞を贈りたい。
 そして「同窓会会報」の“アルスの森”(同期生関谷忠男氏の想い出の記事)を読み、一期生のみが味わった学校の草創期の稀有な体験を懐かしく思い出し た。
 自前の校舎もなく仮校舎を転々としながらも、新設校特有の燃えるような教職員の熱意や創意、これに呼応して乏しい教材を分け合い協力し合った我々一期生 の純粋で素朴な勉学風景。
 「至大荘」での試肝会や遠泳、結果的に無益であった軍事教練や勤労動員での数々の初体験。そして終戦の詔勅を聴いた後の落胆と絶望。更に現在の国府台高 校への移転作業。思いがけない新校舎でのノミやシラミとの格闘など、思い出は尽きない。
 戦中に愛国少年として育った我々が、戦後の民主教育に即応出来るはずも無く、しばらく虚無の生活から脱却できなかった。
 「同窓会会報」の和田先生の記事にある“学帽の白線”は当時の中学生に撮って憧れの的であった。戦中の失われた時を埋めるべく、旧制高校受験を決意しそ のために四年の三学期に東京へ転校した。わずかな期間他校へ移ったが、私の中学校生活の全ては、市川市立中学校にあったと思っている。
 現在の校章(昭和二十二年制定)は、制定前年に生徒から公募した際の私の応募作品であることを付言しておきたい。
 最後に、国府台高校と同窓会の各位の発展を願うと共に、この記念細事を契機として更なる飛躍を祈念してやまない。
山本亨介 
1期(S24年卒)

まだ見ぬ校舎
 
 一期生は昭和五、六年生まれ。十二年に尋常小学校に入学し、日中戦争や太平洋戦争が始まり、いつも戦争と背中合わせで戦時色が満ちていた。
 昭和十八年四月市川市立中学校に入学の日、市川という場所がら、市川と東京の生徒が半々であったが、顔見知りの友達が一人も居らず心細かった。
 心に残ることが二つある。ひとつは中学校入学後間もなくの仮校舎(現平田小)焼失である。当時、平田に住んでいた私は、総武線のけたたましい蒸気機関車 の汽笛で目を覚まし、学校の方の空が真っ赤だったので急いで線路ぎわまで行くと、棟が焼け落ちる瞬間で、音を立てて崩れる学校を見て体を硬くした。
 もうひとつは昭和二十年三月十日の東京大空襲。一緒に机を並べていた友達三人を失い、とても心が痛んだ。
 私は親の家が焼け、まだ熱い焼け跡の前に立ったとき子ども心に戦争に参加しているのだと思った。
 同月二十日転居のため県立輪島中学校に転校したが、その年の十月に市川市立中学校に復校した。
 翌二十一年三月、学校が国府台に移転したが、その時の校舎は兵舎がそのまま使われていた。
 翌年父が亡くなり私の学校生活も事実上終わった。新しい国府台高校の校舎が見たい。
高木寛五 
1期(S24年卒)

青春の国府台高校
 
 先日、母校創立六十周年同窓会へ顔を出した。同期生の出席は少なかったが、今から四十数年前のあの頃を懐かしく思い出した。私も昨年還暦を迎え、「今年 六十のおじいさん」であるが、気持ちは十歳若い。
 あの頃、遠い遠い暑い暑い夏の日…。私は野球部員であった。夏空に白球を追いかけ自分の情熱の全てを野球にかけていた。夢を見ていた。私は三年間毎日日 記を書いた。いわば野球部日誌みたいなものだけど、名付けて「鴻陵記」。
 そこには夢や希望、苦悩や失敗、淡い憧れなど、いっぱい詰め込んである。まさにスポーツ青春ドラマを地でいったオレがいる。なんて一途だったんだろう。 今振り返ると全てが美しく輝いてみえる。私にとってはすばらしい思い出を作ってくれた母校国府台。私が死んだらこの「鴻陵記」をお棺に入れて欲しいと女房 に言ってある。
 あの世とやらまで思い出を持って行くんだ。まだまだ先とは思うが。
植田 豊 
14期(S37年卒)

※紙面で植田さんのお名前が間違っていました。お詫びして訂正いたします。

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