国府台高校同窓会会報
第23号

2003年(平成15年)11月15日

(1)


創立60周年記念
祝賀会せまる!
歴史と伝統を愛でつつ 十年に一度のパーティー
 
 母校創立六十周年を記念する祝賀会が、来る平成十六年二月二十二日(日)東京マリ オットホテル錦糸町東武にて挙行の運びとなった。この祝賀会は同窓会・学校・PTAの連携のもとですすめられる記念事業の一環として挙行されるものであ る。
 過去の本校での創立記念事業の実績を振り返ると、それぞれが抱える事情などから同窓会・学校・PTAの足並みが必ずしも揃わなかったという残念な経緯が あった。
 しかし、六十周年記念事業は国府台高校の歴史と伝統に恥じないものをとの思いから、同窓会・学校・PTAの三者の連携が図られることとなった。一昨年の 検討委員会を経て、昨年夏には三者それぞれの代表からなる記念事業実行委員会が発足し、委員長に澤田同窓会会長が就任した。本校にふさわしい有意義な記念 事業の実現に向けて一体となって取り組んでいる。
 記念事業の内容は、同窓会が主体となって運営する記念祝賀会に加え、十一月の記念式典(学校・在校生主体)、記念誌の発行が中心となる予定で、母校への 記念品の贈呈も計画されている。
 これまでにない機軸での取り組みが、「鴻陵」に所縁のある総ての人びとを繋ぐ、文字通り時代を画する記念事業となることが期待される。

 澤田会長 

実行委員長
澤田大八郎

創 立六十周年を迎えて

 今般、我等が母校国府台高校が二〇〇三年度(平成十五年度)を以って創立六十周年を迎えることに成りました。
 顧りみますと、激動の二十世紀後半の歴史と共に歩んで来た国府台高校も、大過なく今日を迎えられたことは、これも創立以来、本校の発展に寄与された歴代 の諸先生方はじめ関係各位、皆様方の情熱と研鑽の賜物と拝察し敬意を表する次第です。特に今回は初めて学校、PTA、同窓会の三者連携によって記念行事を 実施いたします。
 会員のみなさまには、今般の記念事業への協力を賜りますようお願いすると共に今後より一層のご支援とご協力をお願い致します。
伊能委員長

60委員会委員長

伊能重憲
記念事業への参加を願う
 
 昭和十八年(一九四三年)四月に、市川市立中学校として創立以来の六十年の歴史に思いを致し、長時間の競技の結果、三者合同の記念事業の計画が立てられ ました。

 同窓会としても、それを歓迎し、実行委員長に澤田会長、副委員長 に加藤理事長、委員として川島副会長、菅田広報委員長がその任に当たっています。
 同窓会は主として祝賀会を担当することになり、十五年度総会に於 いて、鴻陵会記念事業委員会(略称:60委員会)の組織と事業実施要領につき承認をいただきました。60委員会は、各期理事を中心に、実施計画の細部検討 と、準備作業のための会合を重ね、今日に至りました。
 ご案内の各事業への協力をお願いすると共に、一人でも多くの方々 に祝賀会へ参加をいただきたいと願っています。
 同窓生一同、母校の歴史を愛で、その発展を期待したいと思いま す。

定例総会開催
記念事業に向け特別予算執行へ
 十五年度定例総会は、五月二十五日、母校で開催された。澤田会長、布 施校長はじめ学校側来賓の挨拶の後、議事に移った。
 事業報告、事業計画、会計報告、監査報告については異議なく承認された。予算案については、十五年度一般会計予算と、六十周年記念事業費四百万円余を支 出する特別会計予算案とが、いずれも承認された。
 六十周年記念事業に関しては、まず、同窓会・学校・PTAの三者が運営する記念事業の進捗状況について、澤田会長の報告があった。続いて同窓会の取り組 みとして、伊能副会長を委員長とする「鴻陵会記念事業委員会」が、祝賀会ならびに名簿発行を柱に事業運営にあたるとする「記念事業実施要領」が承認され た。
 総会終了後、例年どおり懇親会に移り、久しぶりに先輩、後輩との交友を楽しんでいる姿が見られた。
総会


お元気ですか 和田正武先生
和田先生 和田先生の国府台高校在職期間は、昭和二十 二年十一月から二十九年四月まで。国語科担当、文芸部、弁論部の顧問。二十九年五月から四十年三月まで、静岡 県清水東高校、三島北高校勤務。四十年四月に千葉県に戻り、千葉高校、習志野高校と異動、小金高校で定年前に退職。
 その後、県立船橋高校や看護婦養成学校で講師を務めた後、十数年間、日本語学校校長 として、中国人や韓国人の就学生の日本語教育にあたる。一昨年七十七 歳で引退。今は閑中忙の真只中。好奇心は衰えを知らず、パソコン、デジカメ、CD、DVD、画像と音声と小説に囲まれて結構忙しいとのこと。
 和田先生というと、やはり落語との関係は無視できない。昭和四十八年から、小岩寄席 を十年、当代一流の師匠方(正蔵、圓生、小さん、志ん朝、馬生、今 輔、助六、馬琴、芦州、文弥ら)を招いての本格的な地域寄席を主催し、今に懐かしむ人々も少なくない。
 昨年十月以来大腸憩室出血、心筋梗塞で入退院を繰り返し、地獄の入り口を垣間見て来 たこともあって、人生年貢の納め時が迫っていることを知らされ、戸 惑っているというのが正直なところ、と言われる。
 それにしても、国府台時代は良かった。今から思えば、物こそなかったが、あとは総て恵まれていた。特に人と時代。良き師と生徒と民主主義があった。国府 台高校の学帽には白線があった。これには旧制高校の教養主義の伝統を引き継ごうとする意志と念願が込められていたのだ。これは異議なく、無条件に受け入れ られ、それを願い、誇りに思う先生と生徒によって支持され、上昇志向の活気に溢れていた、と述懐される。
 そんな空気を吸い、二十歳代を先生として過ごした私は、生涯ここから抜け出せなくなってしまった。だから国府台高校の校歌は、今も忘れない…と言われ る。


アルスの森

草 創のころの鴻陵生
 本校の創立(当時は旧制市川市立中学校)は太平洋戦争のさなか。昭和 十八年入学の一期生は三年生のとき終戦を迎えた。その一人、関谷忠男氏は学生生活の 想い出をこう振り返る。
(1)入学試験は市川小学校で、入学式は校舎を借りた平田小学校の校庭で行った。
(2)年を経ずして仮校舎焼失市川商業(後に廃校、場所は現宮田小学校)に移転。
(3)初代校長の尽力で上総興津にあった東京市立一中の至大荘で夏冬一週間程度の海洋訓練をした。夏は祠[ほこら]まで往復の試胆会と遠泳、冬は日の出前 の海に入る禊[みそぎ]があり、忘れられない。
(4)戦争が激化し、校庭南東隅に防空壕を掘り、空襲警報が発令されると、学校に近い生徒が輪番で昼夜を問わず警備のために登校した。
(5)勤労動員として船橋の日本建鐵で戦闘機の部品作り。作業中敵機襲来、機銃掃射を受けたが、当校関係者は全員無事だった。
(6)昭和二十年八月十五日、敗戦を工場のラジオで聞いた。当日の抜ける様な青空は今も鮮明に覚えている。

 六十年の歳月につれ、世の中も学校も変わった。
 それぞれの想いを胸に国府台で学校生活を送った鴻陵生も一万八千を数えるに至った


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