第22号
   平成15年(2003年)1月15日発行

(2)


ミニレター 同窓会・クラス会・部活OB会.....
やった、やるよ、やりたいな。報告、予定のミニレター
34期(S57年卒)
友達
 高校時代の友人との関係は、年賀状のやりとり程度になっている場合が多いと思うが、年賀状にeメールアドレスをつけるようになったことをきっかけに、四人の同級生に連絡をとることができた。何とか都合を合わせて、十八年ぶりの再会を果たすことができ、感激だった。大学や仕事での友人は、専門分野や仕事上の話が多くなるのに比べて、高校時代の友人は純粋な「友達」だと思っている。なかなか会えないが、ずっと大切にしていきたい。
 当時の思い出として印象深いのは、やはり鴻陵祭だ。特に二〜三年と持ち上がったクラスでの最後の鴻陵祭は、連帯感を最高潮に高め、充実した高校時代を友達と過ごせた自分は、本当に幸せだと思っている。
 そして僕は、幸せにも高校時代にもう一つの充実した友達関係を持つこつができた。バスケットボール部だ。極限の練習の中での信頼関係は、クラスメイトとは、また違った深いものがある。中でも同学年の男子七名は、三年間苦楽を共にした人生の宝ともいうべき存在になっている。社会人になってから、困難にぶつかったときは、いつも部活のことを思い出し、勇気を奮い立たせている。
 いつの日か、三年三組のクラス会と、バスケットボール部のOB会を何とか実現したい。
畠中 浩樹


27期(S50年卒)
IT時代のクラス会
 二十五年ぶりの感動的な三年五組クラス会が、船橋であったのは、一昨年の三月末でした。
 「あの人誰?」の連発、「あれ、貴方が昔あこがれていた人じゃない?」「ええ?」そりゃお互いに「ええ?」です。しばしの興奮の後、四十三才の集団が十八才の若者にタイムスリップするのに五分とかかりませんでした。
 担任の田上稔先生は、昔とお変わりなく、帽子とマスクの出で立ち。二時間も前からそわそわとお待ちでした。
 全国から四十五名中、三十名が出席!! 二次会、三次会と話は尽きず、結局翌朝まで続く大イベントになって、中年の不良たちはしばしなつかしい青春の海に浸ることができました。
 世はIT時代。メールを駆使して三ヶ月間様々な情報からクラスの四十五名中四十名までの住所がわかり、三十三名のメールアドレスがわかりました。今では指一本の一括送信で瞬時に、文字で連絡が伝わりますが、実際にお互いの心に残っている自分を思い出させてくれる同級生に会うと妙に若い力が湧いてくるものです。
 クラス会の酒は、若返りの水です。
仲村啓子


想い出
 荒巻あき子先生は、昭和三十七年から平成元年までの二十七年間、数学教師として在職され、一昨年の暮れに亡くなられました。
 その間、吹奏楽部の顧問をはじめ多方面にわたり、ご尽力いただきました。
先生を憶って
 荒巻先生からお話ししたいことがあるので家に来てほしいといわれて伺ったのは一年前のこと。「私は癌で、それも末期だと思う。」と静かにおっしゃられ、私は言葉もありませんでした。
 音楽や社交ダンスを楽しむ豊かな感性の持ち主の先生にとって、突然の告知はどんなにか辛いものだったことでしょう。自分が受け持った四クラスの代表者の連絡先を書いたものをくださりながら「入院して皆に逢いたくなるときが来たら、あなたから連絡してね。」とおっしゃいました。お体の辛い時に、そこまで後のことをご準備なさる責任感に圧倒されました。
 先生が国府台高校に転任していらして、初めて受け持たれたクラスが私たち。“個性豊かな生徒たち”と面白がり、かわいがってくださって以後四十年のお付き合いが続いたのです。私が数学へと自然に進んだのは、数学教師としての先生に毎日接していたことも大きな要因でした。
 最期までご自分を律し、素晴らしい生き方を見せてくださったことに尊敬と感謝!
黒田則子
17期(S40年卒)
先生を偲ぶ
 「荒巻先生の御病状が悪化している」という連絡をいただいたのは、一昨年十二月の下旬のことでした。大学病院も年末体制に入っていたため、遅ればせながら御見舞いに伺った時には、もうほとんど意識もはっきりしない状態でした。「もっと早く御見舞いに来ていたら……」と悔やみながら、先生の細くなった手を握らせていただきました。
 国府台高校卒業後、歯科の道に進んだ私を、荒巻先生は頼りにしてくださり、御自分の歯のことを、いろいろ相談してくださいました。とくに市川の某歯科医院でインフォームドコンセントを無視した治療を受けてからは、世田谷の兄の診療所まで通って私や兄の治療を希望してくださいました。世田谷から市川まで御一緒に帰る途中で、時には食事などもとりながら先生と世間話ができるなんて、高校時代は想像もできなかったことでした。
 荒巻先生のイメージといえば、いつもピーンとのばした背すじとさっそうとした歩き方で、言葉づかいもとてもていねいで、学生にもきちんと敬語を使われる方でした。趣味も幅広く、音楽にスポーツに旅行にと意欲的になされ、国府台高校を退職されてから始められた社交ダンスの発表会では、素晴らしいドレスで、軽やかに踊られていたことが鮮やかに記憶に残っています。
 亡くなられる前に洗礼を受け、「グレース」という名前をいただいたとのこと。気品のある先生に本当にふさわしいものだと思います。
 いつまでも私達教え子のことを気にかけていただき、心より感謝しております。先生にお逢いできなくなると思うと、クラス会を開く楽しみも半減してしまいますが、そのうち皆で偲ぶ会を計画しようと思っています。
井上美津子
20期(S43年卒)
先生の思い出
 突然の訃報から、季節は巡り、また冬を迎えようとしています。私は吹奏楽部員として、また三年間先生のクラスの生徒として本当に幸せな時間を過ごしました。卒業後も音楽会に誘っていただいたり、お宅に伺っては様々な話しに花を咲かせました。
 そのような先生とのおつき合いの中で、たった一度だけ先生御自身が立たれた舞台を拝見しました。それは一九九九年の秋、息子さんの所属されるオーケストラとの共演で、ハイドン作曲オラトリオ「天地創造」でした。「合唱団に入団したいけれども、体力的に大丈夫かしら?」とずい分迷われたようですが、日曜日ごとの練習はとても楽しそうでした。「新しいお友達ができたのよ。」「合唱の先生がすばらしいわ。」とお話しされるときは、まるで少女のようでした。
 長い時間をかけて準備され、本番の日、池袋の芸術劇場の舞台の上の先生は、白いブラウスに黒のロングスカート、真珠のイヤリングとネックレスをされ、とても素敵でした。それまでに一度も拝見したことのない緊張した面持ちに、私も思わず身を固くして聴き入りました。息がつまるほどのピアニッシモで始まり、休憩なしの二時間弱の大曲はすばらしいものでした。演奏後の大きな拍手の中、先生も晴れやかなお顔でした。
 数学と音楽とダンスを心から愛された先生から、色いろなことを教えていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。私は最近、ようやくその時のCDを聴きたくなりました。あの日のお姿を思い浮かべながら、すぐそばで先生も楽しそうに聴いていらっしゃる気がしています。
林 康子
31期(S54年卒)


シンボルマーク 最優秀賞に 本校1年 御堂丸圭介さん
平成17年度全国高等学校総合体育大会「2005千葉きらめき総体」が、本県で開催されるが、
公募されたシンボルマークの743作品の中から、御堂丸君の作品が選ばれ採用されることとなった。

こちらに関連情報



22号もくじにもどる


COPYRIGHTS (C) 2003  ChibaPrefecutural KONODAI High School Alumni Association
千葉県立国府台高等学校同窓会 広報委員会