第22号

平成15年(2003年)1月15日発行

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創立60周年記念事業
 実行委員会発足  三者での話し合い進む
 平成十五年度に、創立六十周年を迎える母校の記念事業の第一回実行委員会が、七月九日に同窓会・学校・PTAの三者で母校に於いて会合を行った。
 同窓会からは
 澤田会長  (七期)
 加藤理事長 (十八期)
 川島副会長 (十八期)
 菅田広報委員長(九期)
の4名が出席した。互選により役員選出が行われ、同窓会の委員は
 実行委員長 澤田会長
 副委員長 加藤理事長
 会計   川島副会長
 監事 菅田広報委員長
に、それぞれ就任した。
 なお、学校・PTAの要請で、祝賀会の実施日時、内容は同窓会に一任したいとの申し入れがあり、この案件を承認した。
 第二回実行委員会は十月九日、前回に続き役員の役割分担を決定した。同窓会としては、澤田会長が記念式典、加藤理事長が祝賀会、川島副会長が記念品、菅田広報委員長が記念誌編集とそれぞれ担当することになった。
 記念事業として、記念式典、記念誌発行、祝賀会、記念品、以上の四項目の内、多くの同窓生にとっての最大の関心事は祝賀会であるが、開催日時は十六年一月か二月の予定で検討中である。


定例総会開催 澤田会長信任さる
 
 十四年度定例総会は、五月二十六日、母校にて開催された。澤田会長、布施校長の挨拶があり、新任の今野教頭の紹介等、学校側の挨拶の後、定例通りの議事が進行された。
 本年は役員改選の年ではあるが、澤田会長以下、全役員が全会一致で信任され十四年度の役員として、前期に引き続き六十周年記念事業に向けて前進することとなった。
 その他、事業報告、会計報告及び監査報告、事業計画、予算案、六十周年記念事業計画等が討議され、全て承認された。

(参照 【議事録】はこちら
 

 
 総会終了後、懇親会に移り老若男女の同窓生が久し振りの会合に、同期生同士や先輩と後輩など、和気あいあいの中、お互いの健在ぶりをたたえる会話を、会場のあちこちで聞くことができた。



引き続きご支援を!!   会長 澤田大八郎
 
 私はこの度、平成十四年度同窓会総会に於て、前期に引き続き会長の選任を受け、留任することになりました。
 来る平成十五年は母校創立六十周年を迎えるにあたり、学校・PTA・同窓会三者連携の基に、記念式典、記念誌の発行、記念祝賀会等、各行事が企画されています。
 その様な、状況の中での再任で、その重責を痛感していますが、各期の役員、委員の方々と協力し、責務を果たすべく微力ながら努力致す所存です。
 五十周年記念事業以後、会報等で報告の通り名簿管理、広報、ネットワーク、鴻陵祭等、各委員会の活動を行っていますが、もとより同窓会の活性化は、一部役員委員のものでなく、一万八千名を超える会員各位の会であることをご理解の上、何卒ご支援ご協力を再度お願い申し上げます。




お元気ですか 矢野幸夫先生
 
 矢野先生は、昭和二十一年、市立中学校の時代から約十五年、国府台高校の理科の先生として在職されました。その間、生徒達の居住地域の範囲を中心に、生物部の活動と共に蝶や蛾類の採集をし資料の収集をされていました。その頃の先生は、まわりの生徒達からは蛾の先生と呼ばれていたとか。
 その後、千葉県理科教育センター主査、県教育センター科学研究部長、センター次長を経て、昭和五十二年からは県立衛生短期大学教授となられ定年退職されました。国府台高校在任中にはフルブライト計画による米国留学もされました。
 この間に、数々の研究論文を発表され、それにより、様々な賞や表彰を受けられ、生物の研究分野に大きく貢献されています。中でも「チョウ類を授業中に羽化させる方法」では、東レ理科教育賞を受けられ、教育会にとって大へん貴重なものとされています。
 平成元年に県立中央博物館が設立されたとき、同時に博物館友の会を発足させ初代の会長になられました。
 現在は、友の会で昆虫教室を開いておられます。子どもの組とおとなの組とそれぞれ年四回ですが、他に同好会もできて、楽しい学習の場を広げておられます。企画も全て先生が立てられるとのことで、子ども達に囲まれた学習風景の写真はとても楽しそうです。
 趣味は、仕事にも関係して写真を撮ることと、あちこち歩くことだそうです。
 背が高く、相変わらずすらりと細身でいらして、とても八十歳とは見えない見えない若さでお元気です。
 国府台時代に始めた千葉県の蛾の調査は今も継続中で、まだ整理したい資料などがたくさんあると話されています。その研究への情熱と姿勢にとても感銘を受けました。



アルスの森 鴻ノ臺追懐
 小学校四年の夏のこと、近所の子供たちが一決して、「里見公園に行こう」ということになった。私たちは市川橋たもとの住人であり、里見公園行はちょっとした遠征であり、探検でもあった。
 公園は当時、荒地だった。腰まで埋まる雑草の彼方に異様なものが目に入った。誰かが「戦車だ!」と叫んだ。キャタピラも砲も外されているが、近寄ってみるとまさしく戦車だった。赤錆びた鉄の塊だった。
 国府台一帯はかつて旧軍駐屯地であり、国府台高校用地も野戦重砲第七聯隊兵営だった。里見公園は陸軍野戦病院里見分院で、戦闘で精神を病んだ兵士を主に収容、治療していた。終戦前後ここに勤務していた軍医将校に斎藤茂太がいる。陸軍病院の後身である国立国府台病院創立二十周年記念誌に、斎藤は(終戦の夏)「院庭ではさかんに、戦車への肉迫攻撃の演練をする兵士の姿が見られた。」と書いている。私たちが眼にした戦車の残骸はこの肉弾攻撃演習の標的ではなかったかと思っている。
14期 浅賀徹也



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