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ミニレター | 同窓会・クラス会・部活OB会.....
やった、やるよ、やりたいな。報告、予定のミニレター |
19期(S42年卒) 十年ぶりの同窓会
昭和四十二年卒業の三組(西本敏郎先生担任、英語)の同窓会を開いた。団塊の世代と呼ばれた我々も五十二才である。会社の上役からは「全共闘」、ゲバとして暴走を恐れられ、部下達からはオジン、オバンとして疎まれ、いずれからも異邦人視される世代である。近頃は老人臭が娘に注意される前に自分でも気付くようになった。
ほぼ十年ぶりの同窓会だったが、遠くは福岡や名古屋からも馳せ参じ三十人以上が参加した。何と言っても連帯の世代である。現況報告を聞けば、いずれも会社ではリストラの波と戦い、家庭では両親の介護に耐えている。子ども達は大学生か社会人、中には七才の孫のいるおばあちゃんもいる。両親の介護の経験をもとに介護士の資格を目指すという人もいれば、会社を辞めて事業を起こし成功した人もある。高校時代は心もとなく、これで社会で通用するのだろうかとお互い思ったものだが、何とも皆、心強く生きている。立派な人生を送ってきたと感動さえ覚えた。
高校時代のあの頃の顔を思い出しながら話しを聞いていると、一人一人が今向かいあう人生の重みが、きちんとした輪郭を持ち、すがすがしくさえ思えた。仕事柄いろんな国に住み、外国人とつきあうことが多いが、「中年の平均的日本人」となった旧友を見ていると、日本という社会の生まじめさ、たくましさが改めて認識できた。高校時代は、こんなりっぱな仲間が周りにいたとは気づかなかった。心地よい再会であった。佐藤俊行
山岳部OB会 初々しい姿に感動第二回懇親会を一九九九年九月十一日、群馬県猿ヶ京温泉みくに荘にておこないました。顧問としてお世話になった松本、和田、川鍋、宇野、長友、各先生方にも参加いただき、加藤徹氏(18期)他、総勢十七名が旧交を温めました。
近況報告の後松本先生が御用意下さった六十五、六十六年末の八ミリフィルム上映会を行いました。初々しい高校生や若々しい恩師の姿に一同大感激の様子でした。
部屋に戻り石原さんが用意してくれた歌集とミニギターの伴奏で夜更けまで合掌交流が続きました。
この懇親会は、浅間山事故等に関わった18期〜25期のOBの集まりで一回目は一九八七年六月、軽井沢星野温泉で行い参加は十九名でした。
19期の福家理人さんは、一九九七年十二月二十四日病気のため逝去されました。当時、三回目の懇親会を福家さんのお店でやらせてもらおうと、その相談のため何回かお電話をかけていたのですが、そのつど、御留守との返事でした。
そんな矢先のことで、今でも悔やまれてなりません。安齋 司 22期(S45年卒)
20期(S43年卒) 仲間
二年前、突然の平塚先生の訃報に驚いて卒業時のままの名簿をもとに数人で連絡をとり合い、先生を偲んでと三十年ぶりに開いたのが一回目のクラス会。参加者は十六名だったが、かなり盛り上がって話のつきない九時間だった。
そして今年(二〇〇一年)十一月に市川の居酒屋で二回目のクラス会を開き、十三名が集まった。
理系のクラスで女子はわずか五人だったので、特別扱いをされ片身の狭い思いをしたが、持ち前の明るさと美しさで男ばかりのクラスの雰囲気を和らげたものだった。今回はそのうちの四人が揃い、女性を中心に話がつきることなく、あの頃の教室に戻った様だった。
卒業して三十四年、皆それぞれ悲喜こもごもの道であったと思うが、高校時代を共に過ごしたことで、何の別け隔てもなく楽しく語り合うことができる仲間とは、この上もなくいいものである。
「クラス名簿の空白を皆でうめていこう」と約束し、又会う日を楽しみにして帰路についた。池田由起子
人との出会いが楽しい想い出
皆さんは「ボランティアガイド・市川案内人の会」というのを知っていますか。ボランティアの精神で、自分達も楽しみながら名所名跡はもちろんのこと、人々の生活の息づく「まち」を案内する人々の集まりです。六十代を中心に五十代から七十代の男女十八名の集まりです。その会員の中に四名の(三期二名と九期二名)同窓生がいて活動しています。 一昨年秋から春にかけて市内の公民館で開講された「ふるさと市川のまち案内人養成講座」の卒業生が中心となって設立されました。「何か新しいことを」という気持ちから講座に参加し受講するという受け身の講堂から「案内人」という外に向かっての行動を始めたのです。発足当時は、人前で説明するだけの十分な知識がないと、気おくれする人も多かったのですが、人とまちとの出会いが楽しくて仲間と励まし合いながら「案内人」の仕事の楽しさを覚えていきました。
月二回の定例連絡会のほか自主的な学習会も積極的に行われています。
皆さんもぜひ一度一緒に歩いてみませんか。あなたの見落としていた「市川」を発見できると思います。菅田鐵雄 9期(S32年卒)
鴻陵祭の思い出
ファイアー・ストーム、フォークダンス、バンド演奏、模擬店、落語、オンチーズ、合唱祭、展示発表、講堂発表等々、当時の華やかさの陰には多くの努力があった。
高く積み上げられた廃枕木は、暑さの中、京成国府台駅からリヤカーで真間山の坂を係りの生徒達の汗と共に上って来たものだった。教室での展示発表のためには、机の移動が担当の文化副委員長と美化委員長を中心に綿密に計画され、前日に実施された。超幅広のテープ(トイレットペーパー)と「アンコール!」の声が飛び交う講堂発表の舞台裏では、担当の副委員長を中心とした裏方が老朽化のため切れ易くなっているヒューズやスポットのケーブルと格闘する姿があった。
どんな形であれ、自分で何かをしたものが何かを得る、それが鴻陵祭で学んだことかも知れない。(元文化委員長)風間健典
21期 (S44年卒)
陸上部の思い出
陸上部にとって忘れてはならないのは黒羽先生である。日焼けした身体にいつでも走れる出で立ちで生徒全員を見ていた。先輩達に引っぱられよく走っていた。
二年の夏に名古屋から転校して来た宇田川舜一君の話では国府台には黒羽先生という立派な陸上競技の先生が居ると聞いて来たとの事だった。その後彼は黒羽先生から一一〇米ハードルを勧められ、三年の県大会では優勝している。(関東大会は準決勝で敗退。)
宇田川君は全校マラソン大会が大嫌いだったそうだが、私にとっては一年のときの全校マラソン大会が一番強い思い出である。現在では出発点もコースも違うと聞くが、当時は校門から松戸へ、葛飾橋を渡って東京へ入り土手を南下し市川橋を渡って国府台の坂道を上って校門へ約十二キロと記憶している。このとき一位で校門をくぐり三百点を河野学級が獲得し先生にも喜んでもらった。
駅伝大会も成績の記憶はないが三年間走った。市川から西船橋駅手前の国道十四号の中央に樹木で上り下りが分離されている所をすぎ稲毛、黒砂と車で通ると今でも自分が駅伝で走っている姿が浮かんでくる。
練習後、女生徒から家庭科実習の食べ物を“差し入れ”してもらったり、帰りに坂道の途中の肉屋でソースのたっぷりかかったポテトコロッケを食べたりした。その味はまた格別だった。今でもコロッケはポテト。ソースはたっぷりかけて食べている。三幣雅美
5期 (S28年卒)