第21号

平成14年(2002年)1月15日発行

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澤田大八郎氏(7期)会長に就任
任期半ばで役員一部改選
総会  十三年度定例総会は、五月二十七日に母校会議室に於いて開催された。
 澤田副会長、加藤理事長の挨拶に続き、新校長布施守氏、その他学校側職員の紹介と挨拶があり、その後議事が進行された。
 議題は例年通り、事業報告、会計及び監査報告、事業計画、予算案、六十周年記念事業等が討議され、全て承認された。
(事業報告、予算・決算はこちら
 但し今回は鈴木会長が体調不良のため任期途中で辞任される事態となり、役員人事に関し常任理事会、理事会で対策について討議を重ねた。会則に「会長に事故のある場合、副会長が職務を代行する」との規定があるが、残りの任期が丸一年あること、六十周年記念事業が間近いこと等を考慮し、特例として残りの任期について新会長を選任することに決めた。その後総会に於いて澤田副会長を全会一致で会長に指名、受託され澤田大八郎氏(7期)の会長就任が決定した
 この結果に伴い、欠員となった副会長に伊能重憲氏(9期)と、新たに川島千津子氏(18期)を選出し、現在の青木利男氏(9期)と共に三名体制とし、六十周年記念事業に向けて強力布陣をもって望むこととした。なお、澤田副会長が兼任していた広報委員長には菅田鐵雄氏が選任された。
 総会後の懇親会は例年になく多数の参加があり、後輩先輩との交流も深まり、盛会の内に閉会した。
 


伝統を大切にしたい
新校長  布施 守
 平成十三年四月に着任致しました。古い歴史をもつ国府台高校に着任できたことを嬉しく思いますと共に、責任の重さを痛感しております。同窓会の皆様の御理解と御協力を賜りますようお願い申し上げます。
 私が国府台高校の存在を初めて知ったのは、受験を控えた中学三年の頃でした。教員になってからは、隣接する国府台球場に野球の県予選や軟式テニスの公式戦などの応援に何度か来ましたが、国府台高校の敷地に入ったのは着任が決まった今年の三月が初めてでした。その事務引き継ぎに来校した時、校長室に訪れた吹奏楽部の生徒の丁寧な言葉遣いに大変好感を持ちました。
 昨今の悪いイメージの高校生とは違い、「鴻陵生のマナー」について生徒総会で真剣に討論できることや、受験を控えて勉強との両立に工夫しながら猛暑の中、鴻陵祭の準備や稽古に熱中している姿などに感心させられました。
 就任後半年ですが部活や行事等を通して感じられる生徒達の自主的に取り組むという姿勢は大いに評価できます。校訓にあるように、生徒たちの自主と責務の伝統を今後とも大切にしていきたいと感じています。




協力をよろしく!
第七代会長 澤田大八郎
 
 私は、このたび健康上の理由で急きょ退任された前鈴木会長の後任として会長に選任された七期代表の澤田大八郎です。
 私は平成六年二月に執り行われた本校創立五十周年記念祝賀会以後、本会には広報委員長、副会長、六十周年準備委員長として携ってまいりましたが、平成十三年度総会のご指名により、会長をお引き受け致すことになった次第です。
 つきましては、当会の発展と活性化を目途として役員の皆様方と共に微力を尽くす所存です。
 当会の概要は現在(平成十三年度)一期〜五十三期会員数では一万八千名を越える会員を擁する会に発展致しております。特に近年では、名簿、広報、ネットワーク、鴻陵祭等、各委員会活動を各委員協力のもと、活動している所ですがまだまだ一部の活動に終止している感は否めない状態です。
 来る平成十五年度には本校創立六十周年記念事業を出来得れば学校、PTA、同窓会の三者協調して執り行なえる様企画している所であります。何卒会員各位のご支援、ご協力を切にお願い申し上げます。
 最後になりましたが、我等が母校国府台高校の更なる発展と各界で御活躍の会員諸氏のご健勝をご祈念申し上げまして、挨拶とさせていただきます。


お元気ですか
 
宮吉 敏 先生
 宮吉先生は昭和二十二年市立中学校を初めとし、三十八年まで国府台高校に在職されました。
 昭和十八年の学徒出陣の一員として出陣された経歴もあり、二十一年復員後、大学に復学されたとのこと。
 卒業後、本校に就職されたのは、語学の勉強のため日仏学院に通うのに交通の便が良かったからだそうです。
 国語の先生として多くの同窓生が指導を受けました。また、写真部の顧問だったとのことで、生徒と一緒に山や海へ写真を撮りに行きながら遊んだことや、引伸機を買う苦労の話など、なつかしそうに話されました。
 国府台を去られてから、薬円台をはじめ数校を歴任され、五十七年には千葉経済の講師もされました。その間に五十一年に文部省教員海外派遣団として、ヨーロッパ五カ国を視察されました。
 六十一年には、胃の全摘出をするほどの大病をされましたが現在ではすっかりお元気で、毎日ラジオ、テレビの語学講座や放送大学などでイタリアをはじめ、数カ国語の勉強を続けておられます。
 国府台時代のことは、先生方も個性豊で生徒も明るくのびのびしていて、とても楽しい日々だったと話しておられます。


 
母校の創立と当時の事情
昭和十九年
 四月から新しい学科として「軍事科学」が登場する。科学兵器、気象、地図、海図などを学習した。
 当時競馬が廃止になっており、中山競馬場には陸軍医学校中山出張所が設置されていた。そこで馬の血清をとる勤労奉仕や、曽谷の農場での麦、さつま芋作りなどに従事した。

昭和二十年
 毎朝の宮城遥拝の形式が軍隊式の挙手の礼になった。
 三年生は、七月から船橋の皇国一八二四工場(日本建鐵)に通年動員となる。米軍機B29迎撃用新鋭機「雷電」の部品作りに従事する。
 一学期の終業式が七月三十一日、二学期の始業式が八月一日に行われた。当時の流行歌「月月火水木金金」の学校版である。
 八月十五日、玉音放送を一・二年生は自宅に戻り、三年生は動員先で聞いた。
 八月二十六日全員登校。改めて三十一日までの夏休みとなった。
(某社・社史よりメモ)



訂正
20号本欄「市川商業の寮」と書かれた記事は東京市立一中(現 九段高校)の興津にある「至大寮」の誤りでした。
 



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