第16号    平成9年(1997年)2月28日発行

(特集)



特集
アルスの森を巣立った 1万5,600羽の鴻の鳥
 座談会・歴代会長と理事長は語る
 第二次世界大戦下に設立された中学校が、国府台高校の前身です。
 既に一万五千五百人の、鴻陵生が、卒業しました。
 激動の昭和に逞[たくま]しく生き、学んだ鴻陵生の皆様にお集りいただきました。設立当時の様子、その他諸行事等お話いただく中で、母校の生いたちや、 その後の歩み等を、知ることができますならばと、企画致しました。
 「ああ、あの時」と感慨深く当時を思う鴻陵生、「ああ、成る程先輩達の時代は」と新たに母校を見つめる鴻陵生、様々でしょう。
 同窓会四十有余年の歩みには、数多い先輩達の、ひた向きな努力があったことも今回、知り得ました。
 これを機にいっそう母校を誇りに思い、愛し、友好の情が深まるならば、これもまた嬉しいことです。
出席者(敬称略)
初代会長 後藤友良(一期)
二代会長 関谷忠男(一期)
三代会長 長須賀一夫(三期)
四代会長 仁茂田日出男(三期)
五代会長 井尾成海(三期)
元理事長 伊能重憲(九期)
理事長  加藤徹(十八期)
司会  水野幸子(四期)
国民学校の四教室で中学校は開校
司会  昭和十八年に、市川市立中学校を設立とありますが、その時の状況や、新制高校に代わるあたりの事情等、お訪ねします。
関谷

 市内の子供達の為に設立された中学校で、一足後れて募集したところ、千二百人もの受験生が集まりましてね。東京からも大勢来ま したよ。市川の人優先に百二十人が合格して二クラスができました。
 今の平田小学校(当時は中央国民学校)の四教室を使っての開校でした。運動場に紅白の幕を張って、入学式を、校長には九段中学の奈良輪先生を迎えまし た。
仁茂田  私達の時は、宮田校舎に入学でしたが......。
関谷  開校の年に火事になりましてね。そのあと、近くにあった宮田(地名)市川商業に移転したのです。その時、私立の市川商業は廃校 に決まっていましたが、生徒はまだ残ってましたよ。商業の最後の卒業生が出て中学の校舎になりました。
仁茂田  市川の教育長をした伊藤教順先生が設立した商業学校でしたが、土地、校舎ともに市に寄贈したと聞いてますよ。
井尾  市内優先と言うと、具体的には、どういうことだったのですか。
後藤  合格者を優先的に取ると言うことのほかに、月謝の額が違っていましたよ。
司会  わたしは市立高女出身ですが、二十年当時市内は八円、市外は十円と月謝に二円の差がありました。
関谷  戦争が激しくなるにつれて学徒動員になりましたが、少しは勉強しましたよ。中山競馬場では、血清を取るお馬さんの世話と、パラ シュートの一部を、作らされましたよ。どうも風船爆弾に装着するパラシュートだったようです。それから日本建鉄では、飛行機の部品を作ってましたよ。
後藤

 動員先で機銃掃射にあって、恐い思いをしましたよ。鉄板に当る弾の音が耳元でしましてね。でもみんな、夢中で働いていました。
長須賀  私達も入学後ずい分畑仕事をやらされましたが、一期や二期の先輩の人達は、大変だったんですね。
仁茂田  戦後も農作業やりましたが、収穫したもの食べた覚えがないんですよ。誰の口に入るか、なんてことには、全く無頓着で、せっせと 励んでましたよ。
司会  卒業名簿には記載されていないようですが、一期生で、爆撃で亡くなった方がいらしたと、聞いていますが、関谷さん御存知です か。
関谷  学校ではなく、東京の空襲によって、無くなっています。三月の大空襲の時は、学校に集合した生徒達に、二人ずつ組になって、東 京に住む同級生の、安否を確かめてくる様にと、言われましてね。私も友達と二人で自転車で、出かけましたが、二人亡くなってました。同期で三人は亡くなっ ています。
後藤  亀戸、平井あたりの下町は、ひどいものでしたよ。焼けこげた死体が、あちこちに転がっていて、目を覆うばかりの有様でした。

大八車やリヤカーで大移動

井尾  三期生は宮田で入学、二十一年に国府台に移ったわけですよ。大八車やリヤカーに、机や椅子等くくり つけて、宮田から国府台迄の大移動ですよ。
仁茂田

 大汗流して坂をのぼって、着いてみれば荒れ放題の兵舎が待ってましてね。一年余りも放置されていたので、窓硝子は割れ、壁板も はがされていました。くもの巣は、あたり一面に張られていて薄暗く、驚きましたよ。これが新校舎なのかとがっかりしてしまいました。
長須賀  柱はいたる所に立っていて、天井も延焼をまぬがれるために、はがされてましたよ。
司会  南京虫の大歓迎を受けたと聞いていますが。
仁茂田  全くそうでした。兵舎でしたからね。たまりませんよ。(笑)
関谷  運動場だって、石だらけで、それを取り除く作業を、毎日やりましたね。
伊能  われわれは九期生ですが、体育の時間には、埋まった石を掘り出す作業をしてましたね。土が固くて大変でしたよ。先輩達は、上の 石を、われわれは埋まった石を取り出したんですよ。
仁茂田  野砲等入るので、固めていたんでしょうね。
関谷  そんなグランドで、野球をするんですから、イレギュラーバウンドなど、当たりまえのことですね。
長須賀  野球も、強い時期がありましたね。
井尾  八期、九期の頃は、運動部の活躍は、めざましいものがありましたよ。
伊能  そのような校舎でしたから、内藤校長は、大変県との交渉に積極的で、改善に尽くされました。でも兵舎がすべて新校舎になるには 相当の年月が必要でしたね。

共学は先生方にとって頭痛の種

司会  女子高の単独昇格ならずで、市立高女は廃校になりました。国府台高校に合流と決まったものの、一年間は宮田校舎で過ごしまし た。いきなりの共学は、先生方にとって、気がかりであった様です。男性達はどうでしたか。
井尾

 昭和二十一年に六・三・三制が決まって、新入生が入学してこないまま、三年間過ごしたわけですよね。それが高二になって共学で すから、期待と戸惑いはありましたよ。
仁茂田  まあ、先生方の心配はあったでしょうが、楽しく過ごしましたよ。卒業してから、何組かのカップルはできたようですが。学生生活 はフェアーでしたよ。
長須賀  あの頃は、各人がカリキュラムを組んで、授業を受けてましたから、当然女子との共学は学年は違っても、しましたよ。
加藤  純粋の新制は五期生から、ということになるんですね。
伊能  私達の学校は、女子高の合流や葛南分校があったりで、複雑なんですよね。葛南分校には、吉田先生が行ってましたね。
加藤  入学式や卒業式は、本校と一緒でした。私は葛南で給食を食べたことがあります。

パトカーの先導で松戸方面マラソン

伊能  私達は一年の時、パトカーが先導してくれました。そのうち交通事情により国分方面に変りましたよ。
長須賀

 マラソンは思い出ですね。
 私達の頃は上位何十名かにメダルをくれましてね。
 私には記念の品です。
井尾  風の吹く時は、寒くてつらいものでしたが、ぽかぽか陽気の時は、気持ちのいいものでしたね。
仁茂田  これは寒中マラソンといっても、陸上部のことですが。毎年元旦には柴又の帝釈天までの、往復マラソンをやりましてね。黒羽先生 が、おしる粉作って待っててくれましたよ。それからは毎年、正月には帝釈天にいってるんですよ。もちろん歩いて行きます。

木炭バスの時代に関西へ二泊の修学旅行

司会  国府台の坂を、馬力がなくてエンストした木炭バスを、乗客の男子生徒が後押ししたそうですね。
仁茂田  そうなんです。運転手の要請で、客が降りて後から押すんですよ。
伊能

 良き時代でしたね。
 汗を流して、エンストしたバスを押すなんてこと、今では考えられませんよ。
司会  その様な時代に、二泊の修学旅行をしていますが。思い出等お話し下さい。
関谷  確かに市では、二泊を認めない時代でしたから、先生方のご努力で、奈良、京都に行きました。思い出になった修学旅行でした。
後藤  私達中学卒業生は、箱根に一泊でした。関谷さんの一年前でしたからね。
長須賀  その頃は、旅館に米を持って行きましたよ。京都と奈良に二泊三日のコースでした。今も関西に行ってるんでしょうか。
井尾  現在も我が校は、関西に行っている様ですよ。

伝統ある我が校の鴻陵祭

司会  鴻陵祭はNHKがテレビ放映したこともある、伝統の行事ですが。
関谷  私は鴻陵祭をやった覚えはありませんね。
井尾  私たちの時代は体育祭や文化祭でしたね。
加藤

 昭和二十三年の文化祭を第一回としていますから、鴻陵祭は文化祭と体育祭の総称となった様ですよ。
伊能  私達の時には、発表の部があって、私は化学の発表を壇上でしましたよ。
長須賀  当時は部単位で発表してましたね。
井尾  今はクラス単位です。それも学年別に参加部門が違うんです。三年は演劇、一年は売店というように。それに学生が運営しているん ですよ。
 今年は同窓会も参加しました。一部屋を借りて、展示やスライド映写をしました。来年も参加したいと考えてますが、同窓生も大勢来てほしいですね。

堅実に育まれてきた同窓会

司会  同窓会について、その歩みをたどってみたいと思います。発足当時のこと、その後の活動等お話下さい。
関谷  最初は、学校の先生によって、つくられた様ですよ。
後藤  在学中には、その気運すらなかったですからね。
関谷  黒羽先生や緒方先生が中心になって、つくったと思いますよ。二期生の時、二十五年が設立となっていますが、その後二十八年に 変ってますね。学校十周年の年を、同窓会設立の年と後日、改正したのでしょう。学校四十周年の時は、同窓会は三十年を祝いました。四十周年記念祝賀会は、 平成六年二月にありましたね。
司会  実際に同窓会が、活動を始めたのは、いつ頃からですか。
関谷  昭和三十四年頃からです。この年に後藤君が就任して、その後私が市川在住ということで代わったんですよ。私も三回程卒業式に出 席して挨拶しました。それぞれ、活動もこつこつやってましたね。
伊能  会費も少なく、手作りの名簿を理事の手で作ってましたよ。毎年作るのは大変になって、四年に一度オリンピックの年に作ろうじゃ ないかと、決めたこともありましたよ。今の様にワープロもコンピュータもない時代でしたから、手作りで、夜遅くまでかかって、発送してました。
関谷  そのうち会員数も増えて大変になりました。せめて卒業生に新入会員名簿を贈ることにしたんですよ。作成は先生にお願いして、費 用は、同窓会が出していました。
司会  鴻陵祭に、三十年史編纂のため集めた資料を展示したと、会報十号にあります。会報も十五号まで出ていますが、その頃のことにつ いてお話下さい。
伊能  会の事業として、当時の規約に、会員名簿および会報の発行がうたわれています。皆少ない会費で、頑張ってましたよ。会報は作る より配布が大変でした。配布の方法が問題ですね。
関谷  同窓会としては、卒業生に、筒と新入会員名簿を毎年贈ってきました。
仁茂田  そういう努力が、永年積み重ねられていたのですね。それが同窓会四十周年祝賀会を機に、盛り上がったということなのですね。
司会  その通りだと思います。現在もそれぞれが前向きに活動しておりますが、今後の活動について、ご意見をお述べ下さい。
関谷  活動が盛んになったことは、すばらしいと思っています。今後は、学校、PTA、そして同窓会と、それぞれの域をはみ出さないこ とが、肝心と考えます。
伊能  理事が参加しない期があっても、やむを得ないことで、参加出来る時がきたら出席するだろうと、理解して、活動すればいいんじゃ ないかと思いますよ。もちろん、情報を送ることは大切です。
長須賀  関谷さんはじめ多くの人々に育てられた同窓会です。五十周年、六十周年を展望した活動をしていってほしいですね。備蓄のことも 含めてですよ。
司会

 同窓生で運動部の後輩のためにコーチを続けた人もいます。同窓会は、学校になんらかの、貢献ができること、又各期の卒業生が鴻 陵の友として、楽しく集うことのできる会でありたいと、私は思っています。本日は、長時間ありがとうございました。





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